ワット・プラ・シー・サンペット



ワット・プラ・シー・サンペットのチェディー(仏塔)(平成22年(2010)4月13日、管理人撮影)



修復前のワット・プラ・シー・サンペットのチェディー(仏塔)(『世界美術全集』14〈平凡社、1930年5月〉79頁より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)

 ワット・プラ・シー・サンペット Wat Phra Si Sanphet はアユタヤ王朝の廃墟となった王宮守護寺院で、『アユタヤ王朝年代記』によると、ボーロマトゥライローカナート王(位1448〜88)が新王宮を川の辺(王宮の北側)に建設した際、もとの王宮を寺院としたものです(Cushman & Wyatt eds., 2006, p.16)

 伽藍中央にチェディー(仏塔)を縦列に3基配列した配置構成となっており、タイでは他にシーサッチャナーライのワット・コークシンカーラームでみられるだけの珍しい構成となっています。

 ワット・プラ・シー・サンペットを特徴づける3基のチェディー(仏塔)は、スリランカ様式の内部空間のない仏塔のことで、釣り鐘形をしています。チェディーは仏舎利を納めるためのもので、スコータイでは仏舎利を納めたチェディーが盛んにつくられています。アユタヤでは代々の国王や親族の遺骨が納められ、仏教建築物としてそれ自体が礼拝対象物であながら、同時に国家の重要人物の墳墓として機能していました。

 ワット・プラ・シー・サンペットのチェディーは、ラーマーティボディ2世(位1491〜1529)が建立したもので、1429年に父ボーロマトゥライローカナート王のために東塔を、兄ボーロマラーチャーティラート3世(位1488〜91)のために中央塔を建立しました。さらにボーロマラーチャーティラート3世(位1529〜33)が父ラーマーティボーディー2世のために西塔を建立しました。

 ワット・プラ・シー・サンペットのチェディーには相輪を支えるために平頭上にサオ・ハンと喚ばれる支柱が何本も張り巡らされており、また内部空間がないことを特徴とするチェディーでありながら、釣り鐘形の覆鉢部に内部空間があり、そこに至るまでの急勾配の階段がつけられています。中央の内部は見学可能で、階段から行くことができますが、内部はコウモリの巣となっており、激しい臭気に満ちています。


ワット・プラ・シー・サンペットのヴィハーン(礼拝堂)とチェディー(仏塔)(平成22年(2010)4月13日、管理人撮影)



ワット・プラ・シー・サンペットのチェディー(仏塔)(平成22年(2010)4月13日、管理人撮影)



ワット・プラ・シー・サンペットの中央チェディー内部(平成22年(2010)4月13日、管理人撮影)

 オランダの東インド会社のファン・フリート Jeremias van Vliet(1602〜63)は自身の著作『シアム王国記』の中で、アユタヤにおける仏寺について以下のように記しています。

「シアム(タイの古名)人は宗教の面では異教徒で、迷信深い偶像崇拝者である。従って全国には多くの大小の寺院があり、それらは石と漆喰、あるいは木材で豪華にまた精巧につくられている。その外見はヨーロッパの教会を凌ぐものがあるが、ガラスがないので、内部は薄暗い。屋根は赤色の土製の瓦でふいてある。またあるものは板と鉛でふいてある。ユディア(アユタヤ)市の支配地域には国全体の上に立つ四つの筆頭寺院がある。すなわち国王の寺院であるワット・シ・セルプト(ワット・プラ・シー・サンペット)、ナ・ペタート(ワット・マハータート)、ワット・デウン(ワット・ドゥアン)(これは月に捧げられたもので、最高の学院である)およびティムピアティである。この四つの寺院のほかに、市の内外にはさらに四〇〇の豪華な寺院があり、金箔をはった多くの塔や尖塔が付属している。それぞれの寺院は信じられないほどの数の偶像で満たされている。それらの偶像はさまざまな鉱石、金属、およびさまざまな材料でできている。そのあるものは金、銀、銅でめっきされ、他のものは金箔をはられ、飾り立てられ、装飾されている。従ってそれは見るからにすばらしく、精巧で、豪華である。それぞれの寺院には、通常一段高い祭壇の上に三の大きな偶像がある。それは四、六、八ないし一〇尋の高さである。」(生田滋訳『オランダ東インド会社と東南アジア(大航海時代叢書U−11』〈岩波書店、1988年7月〉176頁より一部抜粋)

 このように、ワット・プラ・シー・サンペットはアユタヤ王朝における四大寺院の筆頭にあげられ、尊崇をあつめてきました。


ワット・プラ・シー・サンペットの布薩堂(平成22年(2010)4月13日、管理人撮影)

 ワット・プラ・シー・サンペットは、中央にヴィハーン(礼拝堂)、3基のチェディー(仏塔)、ボート(戒壇堂)が東西に一直線に並び、その周囲を34基の小チェディーが囲んでいました。ルワン・プラスート本『アユタヤ王朝年代記』によると、1499年にラーマーティボーディー2世王(位1491〜1529)によって布薩堂が建立されています(Cushman & Wyatt eds., 2006, p.18)。しかし1767年のアユタヤ陥落によってビルマ軍に破壊され、木造の上部構造部分は焼失。小チェディーも大半が失われました。その後1975年から1981年にかけて王宮、ワット・プラ・シー・サンペット、ワット・マハータートワット・ラーチャブラナワット・プラ・ラームなどに一貫性のある保存措置がとられました。

[参考文献]
・肥塚隆編『世界美術大全集 東洋編12・東南アジア』(小学館、2000年12月)
・『週間ユネスコ世界遺産80 アユタヤと周辺の歴史地区』(講談社、2002年6月)
・布野修司編/アジア都市建築研究会執筆『アジア都市建築史』(昭和堂、2003年8月)
・Richard D.Cushman and DaVid k.Wyatt eds.,THE ROYAL CHRONICLES OF AYUTTHAYA.Bangkok:The Siam Sosiety,2006


ワット・プラ・シー・サンペットのボート(戒壇堂)(平成22年(2010)4月13日、管理人撮影)



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