海印寺



海印寺一柱門(平成25年(2013)3月15日、管理人撮影)。紅霞門ともいい、昭和15年(1940)の再建。

 海印寺は大韓民国慶尚南道陜川郡伽耶面緇仁里10に位置する曹渓宗寺院です。貞元18年(803)に順応・利貞によって建立され、義湘の流れをくむ華厳寺院の一刹として名声をはせました。李朝時代になってから高麗版大蔵経が納められ、高麗時代の義天(1055〜1101)、李朝時代の松雲大師(1544〜1610)といった名僧が住した地でもありました。松広寺・通度寺とともに韓国三大寺刹に数えられています。


海印寺創建縁起と寺誌

 海印寺は貞元18年(803)、加耶山に建立された(『三国史記』巻第10、新羅本紀第10、哀荘王3年8月条)。建立された時代は、統一新羅下代の哀荘王(位800〜09)の治世下であった。正史である『三国史記』には海印寺の建立に関しては上記の記事ほどでしかなく、建立事情について『三国史記』の記述からでは一切不明となってしまう。

 海印寺の寺誌には『海印寺事蹟』がある。一名を『海印寺古蹟』ともいい、もとは康熙元年(1662)に版行されたものであるが、同治13年(1874)2月の退庵撰「海印寺失火蹟」も収集していることから、この頃にまとめられたものであろう。諸跋文も収録している。これらはいずれも海印寺雑板(高麗大蔵経以外の諸経板)を印経したものをまとめたものである。最終的には大正4年(1915)にまとめられた。

 「伽耶山海印寺古籍」(1オ〜5ウ)は海印寺の創建に関する縁起を記したもので、天福8年(943)10月に撰述された旨が記されているが、明らかに仮託である。『朝鮮寺刹叢書』上(朝鮮総督府内務部地方局、1911年)にも掲載されている。「海印寺留鎮八万大蔵経開刊因由」(6オ〜11オ)は海印寺大蔵経板の開板に関する伝説を記したもので、新羅の李居仁が大蔵経を開板したとしており、大蔵経が海印寺に移送されたことが忘れられた李朝中期に記されたものとみられる。『朝鮮寺刹叢書』上にも掲載されている。

 「海印寺善安住院壁記」(11オ〜18オ)、「順応和尚讃」(19オ〜19ウ)、「利貞和尚賛」(19ウ〜20オ)、「贈希燔a尚」(20オ〜21ウ)はいずれも崔致遠(858〜?)が撰した海印寺に関する文・賛で、いずれも『桂苑筆耕集』『孤雲先生文集』に掲載されている他、「海印寺善安住院壁記」は『東文選』巻64にもみえる。

 任士洪(1445〜1506)撰の弘治4年(1491)「重修記」(22オ〜23ウ)は前欠で詳細は不明であるが、経板庫を始めとした海印寺重修に関する記録。万暦26年(1598)の明将芳国器による「完文」(24オ〜24ウ)も前欠のため詳細は不明であるが海印寺安護の完文らしい。康熙元年(1662)2月の松月冲虚子文徹による「刊記」(24ウ)は『海印寺事蹟』板を刊行したことを記す。崇禎14年(1641)「慶尚道観察使完文」(25オ〜25ウ)は慶尚道観察使が陝川郡守に下した完文という他は不明。崇禎紀元後三己丑(1769)の有キ(王へん+幾。UNI74A3。&M021253;)撰の「海印寺事籍碑」(26オ〜27ウ)は乾隆8年(1743)、乾隆28年(1763)の火災より海印寺を重修した時の記録である。『朝鮮金石総覧』下や『朝鮮寺刹叢書』上にも掲載されている。同治13年(1874)2月の退庵撰「海印寺失火蹟」(28オ〜29ウ)は海印寺の焼失記録であり、編纂年代は下るものの、海印寺建造物を知る上で重要史料である。その後竄入文(30オ〜31ウ)がある。

 洪武26年(1393)に太祖(位1392〜98)が撰した「印経跋文」(32〜40ウ、43オ〜52ウ)は、太祖が演福寺に大蔵経を印経して納入する時、大蔵経末尾に入れた跋文である。43オ〜52ウは原板で、32〜40ウは復刻であるが、復刻板は前欠となっている。翻刻は菅野銀八「海印寺大蔵経板に就て」(『史林』7-3、1922年7月)、李能和『朝鮮仏教通史』下(国書刊行会、1974年4月)がある。天順2年(1458)金守温(1409〜81)撰「印成大蔵経跋」(34オ〜40ウ、53オ〜57ウ)は、同年に世祖(位1455〜68)が大蔵経50件を印経した時の記録であり、経板庫の重修の経緯を知る上で重要。34オ〜40ウは初雕、53オ〜57ウは再雕である。弘治4年(1491)曹偉(1454〜1503)撰「海印寺重修記」(58オ〜62ウ)は、前述した任士洪撰の「重修記」と同年に記された海印寺重修の記録。経板庫の重修の経緯を知る上で重要。弘治13年(1500)の学祖(?〜1508頃)撰の「印成大蔵経跋」(63オ〜65オ、66オ〜68ウ)は王妃慎氏(1476〜1537)の発願による大蔵経印行の跋文。同治4年(1865)9月の海冥壮雄撰「印成大蔵経跋」(60オ〜70ウ、73オ〜73ウ)は、海冥壮雄が南溟とともに大蔵経二件の印経を発願し、五ダイ(つちへん+台。UNI576E。&M004983;)・雪岳に安置した顛末を述べたもので、大屋徳城「朝鮮海印寺経板攷-特に大蔵経補板並に蔵外雑板の仏教文献学的研究-」(同『大屋徳城著作撰』9、国書刊行会、1988年6月)に翻刻されている。

 「印経事実」(74オ〜76ウ)は光武2年(1898)から同3年(1899)にかけての高宗(位1863〜1907)発願の大蔵経印経の記録。日記体で記される。その時の跋文が光武3年(1899)曹始永撰「印経跋文」(77オ〜78ウ)である。光武10年(1906)朴昌善撰「大蔵経板修補跋文」(79オ〜81ウ)は、前回の印経で発見された欠字欠板修復の跋文。大正4年(1915)9月の朝鮮総督寺内正毅(1852〜1919)撰「印大蔵経跋」(82オ〜85ウ)は明治天皇の冥福を祈願を目的とし、泉涌寺に納めるための印経の跋文で、『海印寺事蹟』はこれに関連して編修されたとみられる


 海印寺の建立について「伽耶山海印寺古籍」によると、昔、中国梁時代の僧である宝誌(418〜514)が臨終の時に山に昇り、門弟らに「私が没した後、高麗に二人の僧がいて、法を求めてやってくるだろう。来たならこの記録を付与しなさい」といった。はたしてその通りに順応・理貞の二人が仏法を求めて中国にやって来た。宝誌の門弟はこれを見て、「踏山記」を付与し、あわせて宝誌の臨終の時の語を説いた。順応・理貞はこれを聞いて法を問い、宝誌が葬られたところに行って「人には古今の法があって前後がない」ということについて尋ねた。七日七夜、入定して法を請うと、墓門が自然に開き、宝誌が出て彼らのために説法し、衣鉢を与えた。また大蛇の皮でつくられた鞋(くつ)を与え、「お前の国の牛頭山の西に仏法が大いに興隆する場所がある。お前たちは国に帰って大寺院海印寺を建てるべきである」と言った。順応・理貞は国に帰って牛頭山に到り、東北より嶺を越えて西に狩人に会った。問うて「お前たちは狩猟のためにあまねくこの山を見てきたことだろう。寺院を建てることができる地があるだろうか」といった。狩人は「ここを去って少しばかりのところに一つの水たまりがあり(今の毘盧殿)、多くの鉄瓦がある。行って見てみるとよい」といった。順応・理貞は水たまりに行ってこれを見ると、非常にその意にかなった。草を敷いて入定すると、頭の頂上とより光を放ち、紫の気が天をついたという(『海印寺事蹟』伽耶山海印寺古籍)

 「伽耶山海印寺古籍」では順応・理貞の二人が宝誌和尚の臨終の予言によって、海印寺を建立すべき地を知ったことが記される。さらに「伽耶山海印寺古籍」は続けていう。

 哀荘王の妃の背中に腫物が出来、良医でも効果がなかったため、王は大いに憂いていた。そこで使臣を方々に遣わし、碩学や異僧を探し求めた。使者は途中、路上で紫気を望み見て、異人があると思い、山の下に到り、数十里ばかりを行くと、深い渓流を東に向かうも、前に行くことが出来ず、しばらく徘徊していた。すると一匹の狐が現われ、巌に沿って去った。使者は心に怪しんでついて行くと、順応・理貞の二師が入定に及び、光が頂門(頭の頂)より出ていたから、使者は敬信して礼拝し、王宮に迎えようとしたが、二師は許さなかった。そこで使者は妃の背中に腫物があることを述べると、二師は五色の線を授け、「宮の前に何があるか」と問いかけた。使者は「梨の樹があります」というと、「この線を一つ持ち、梨の樹に一つ繋ぎ、患部に接すれば治るだろう」といったため、使者は戻って王に報告した。王はこの言葉によって試してみると、梨の樹は枯れて患部は癒えた。王は感動して敬い、国人を遣わして海印寺を建立した。王は親ら寺に行幸し、田2,500結を寄進したという(『海印寺事蹟』伽耶山海印寺古籍)

 このように「伽耶山海印寺古籍」の記するところは、甚だ伝奇的色彩を帯びたものとなっている。しかしながら海印寺の建立実態と、その後の王権の関与は、同時代の記録とはかなり異なっている。そこで次に史料上で知ることができる海印寺創建期の事績についてみてみよう。


海印寺幢竿支柱(平成25年(2013)3月15日、管理人撮影)。新羅時代の建立。

新羅時代の海印寺@

 開創者の順応・理貞についてであるが、詳細は不明であるが、崔致遠(858〜?)の文集に「順応和尚賛」(『孤雲先生文集』巻之1、順応和尚賛)、「利貞和尚賛」とあり(『孤雲先生文集』巻之1、利貞和尚賛)、理貞は「利貞」と表記されていたことが知られる。また同じく崔致遠の「新羅迦耶山海印寺善安住院壁記」によると、順応は海印寺の「祖師順応大徳」であることから(『孤雲先生文集』巻之1、新羅迦耶山海印寺善安住院壁記)、少なくとも創建100年後には順応・利貞が海印寺開山として認識されていたことが知られる。

 「伽耶山海印寺古籍」の記すところの海印寺への王権の帰依については、正史である『三国史記』に記されていない。建立者とされる哀荘王は貞元18年(803)の段階でまだ15歳にすぎず、建立に際して主体的な意志活動を行ない得たかどうか不明であり、むしろ叔父で摂政であった金彦昇(後の憲徳王)が実権を掌握していた。また崔致遠の「新羅迦耶山海印寺善安住院壁記」によると、貞元18年(802)に順応が開創した際に聖穆王太后が帰依して喜捨を行ったことがみえる(『孤雲先生文集』巻之1、新羅迦耶山海印寺善安住院壁記)

 聖穆王太后は先代の昭聖王と摂政金彦昇(後の憲徳王)の母で、哀荘王の祖母にあたる。すなわち哀荘王が主体的に建立を行ったのではなく、聖穆王太后が帰依して建立したものであり、摂政金彦昇が母の意を受けて王権からの支援を行っていたとみられる。実際、成長するにつれ摂政である叔父と軋轢をきたしていたのか、哀荘王は元和元年(806)に教令を下して新寺建立を禁止するとともに、錦を仏事で使用すること、金銀を仏具に用いることを禁止しており(『三国史記』巻第10、新羅本紀第10、哀荘王7年3月条)、仏教酷信による弊害を抑えようとしている。このような抑制策は同じく律令制下にあった9世紀初頭の日本でも実施されたが、短期間で蹉跌を迎えた。哀荘王もまた摂政である叔父によって弑逆されてしまう。

 新羅末期頃の海印寺には文人の崔致遠(858〜?)が隠棲していた。崔致遠は12歳の時に唐に渡り、科挙に及第して官吏として累進したが、望郷の念から新羅に帰国した。しかし大国唐とはいえ、他国の高官であった者が官吏として本望を得ることは難しかったらしく、隠棲して方々を遍歴し、最後は家族を連れて海印寺に隠居した(『三国史記』巻46、列伝第6、崔致遠伝)

 崔致遠は海印寺を舞台とした多くの詩文を残しており、史料が少なく詳細が明らかではない新羅末期の海印寺の様相を知る上でかなり重要なものになっている。例えば乾寧4年(897)秋に海印寺の四至を定めて改築を行ったことが、乾寧5年(898)の「新羅迦耶山海印寺結界場記」にみえる(『孤雲先生文集』巻之1、新羅迦耶山海印寺結界場記)

 また「伽耶山海印寺古籍」では宝誌の予言で選ばれたとされる海印寺の地であるが、崔致遠撰の光化3年(900)「新羅迦耶山海印寺善安住院壁記」によると、神琳(生没年不明)が大暦年間(766〜79)初頭に老人に問い、厳しい山林生活の中で海印寺の地を得ていたという(『孤雲先生文集』巻之1、新羅迦耶山海印寺善安住院壁記)。神琳について詳細は不明であるが、表訓とともに開創まもない石仏寺(慶州の石窟庵)の住持となったこと(『三国遺事』巻5、孝養第9、大城孝二世父母神文代)、同じく表訓とともに仏国寺の浮図・蓮池・金河・玉泉・石槽の五座刹罕をつくったことが知られる程度であるが(『仏国寺古今創記』)、義湘(625〜702)の法統を受けた人物であり、高麗の一然(1206〜89)が撰述した『三国遺事』によると、義湘(625〜702)が伝教させた十刹の中に、太伯山浮石寺、原州の毘摩羅寺、毘瑟の玉泉寺、南岳の華厳寺、金井の梵魚寺などと並んで、「伽耶の海印寺」とあり(『三国遺事』巻第4、義解第5、義湘伝教)、高麗時代には海印寺が義湘が伝教した寺院の一つに数えられていたことが知られる。

 実際、海印寺の寺号の「海印」は、海印三昧によっており、大海がすべての生き物の姿を映し出すように,一切の法を明らかに映し出すことのできるような智慧を得る三昧を意味する。「大集経」に「たとえ閻浮提一切衆生の身、及びほかの色、如是等の色、海中にみな印像あるがごとし。この故を以て大海印と名づく」(『大方等大集経』巻第15、虚空蔵菩薩品第8之2〈大正蔵397〉)と説くが、華厳宗ではこの三昧を華厳経の根本三昧とし、「華厳経」では「衆生の形相、おのおの同じからず。行業音声もまた無量、かくのごとく一切皆よく現ず。海印三昧威神の力」(『大方広仏華厳経(新訳華厳経・八十華厳)』賢首品第12之1〈大正蔵279〉)と述べた上で一切が相即し合う事事無礙の世界が成り立つとする。

 「新羅迦耶山海印寺善安住院壁記」によると、海印寺の建立は貞元18年(802)のことであり、縁起などには開創者として並び称される順応・利貞であるが、実際に建立の端緒をつくったのは順応であるものの、茅を結んだ粗末な庵程度の小寺であったらしく、最終的に伽藍として完成させたのは利貞の方であったらしい(『孤雲先生文集』巻之1、新羅迦耶山海印寺善安住院壁記)。貞元20年(804)3月の禅林院の鍾銘(1948年に発見され、1950年の朝鮮戦争で破壊された)によると、「上和上」として「順応和上」がみえ(「新羅禅林院鍾」〈韓国金石遺文134〉)、貞元20年(804)3月の段階で順応が禅林院に住していたことが知られる。「禅林院」はその名称から禅寺と見られており、海印寺のある伽耶山が別名を牛頭山といい、また崔致遠による順応についての賛には「天業禅を受くるはなお覚賢のごとし。牛頭は袷を垂れ、罔象は玄を揮る」とあるように(『孤雲先生文集』巻之2、順応和尚賛)、順応は唐代中・後期に中国江南で隆盛した牛頭禅を学んだとみられている。

 順応が入唐した8世紀中頃、牛頭宗には牛頭慧忠(683〜769)や径山法欽(714〜92)が活躍した時期であり、牛頭宗の思想には如来蔵思想に基づく無情有仏性説が主張されていたといい、華厳の教理に詳しかった順応の目を引いたと見られており、義相系の華厳僧にとって禅は対立的な宗派ではなく兼修できる思想であり、厳宗においては禅宗との区別さえなしに兼修するほど深い交流が行われたと考えられている(金2008)。行寂(朗空大師、832〜916)のように海印寺で「経論を探し、雑花の妙義を統べ、貝葉の真文を該す」とあるように教宗系(恐らく華厳宗)を学んだ後、禅宗に転向しているが(「太子寺朗空大師白月栖雲塔碑」〈朝鮮金石総覧58〉)、これは海印寺が華厳宗などの教宗と禅宗が兼修可能であったという素地があったことによるものとみられる。


海印寺三層石塔(平成25年(2013)3月15日、管理人撮影)。新羅時代の建立。



海印寺石燈(平成25年(2013)3月15日、管理人撮影) 。新羅時代の建立。

新羅時代の海印寺A

 龍紀元年(889)、新羅国内の諸州郡が貢賦を納めなくなったため、府庫は欠乏し、国用も困窮するに至った。そのため王は使を発して督促したが、かえって盗賊が蜂起することになった(『三国史記』巻第10、新羅本紀第10、真聖王3年条)。これを契機として、すでに衰退しつつあった新羅では各地で戦乱が相継ぎ、やがて新羅滅亡への道を歩むことになる。

 海印寺では乾寧2年(895)に前後7年にわたる戦乱で命を落した者を供養するため吉祥塔を建立した。銘文によると、原野に餓死者と戦死者の骸が原野に星のように散乱する有様であり、海印寺別大徳僧訓が導師となり、供養が行われている(「海印寺塔誌(海印寺妙吉祥塔記)」〈韓国金石文追補14〉)。また龍紀元年(889)から乾寧2年(895)まで7年間続いた戦乱によって、賊軍が寺院に接近したため、僧らはこれと交戦して多くが倒れたという。銘文には戦没した僧侶・俗人の名が56名記されている(「海印寺塔誌(海印寺妙吉祥塔記)」〈韓国金石文追補14〉)。これらによって、海印寺では戦乱に際して、寺院を守るため緇軍(僧兵)が結成されて賊軍と交戦したことが知られる。

 弘治4年(1491)、重創中の海印寺毘盧殿の梁上より都料匠(棟梁)朴仲石により、海印寺の買田荘券43通が発見された。これを見聞した曹偉(1454〜1503)によると、田券には乾符7年、広明3年、中和5年、龍紀3年、景福3年の年号が記されていたが、いずれも唐の紀年を過ぎてしまっており、実際には乾符7年は広明元年(881)、広明3年は中和2年(882)、中和5年は光啓元年(885)、龍紀3年は大順2年(891)、景福3年は乾寧元年(894)であった。紀年にずれがあることに関して曹偉は唐の正朔が新羅に伝わるまで時間差があったと述べている(『梅渓先生文集』巻之4、序、書海印寺田券後)。これら買田荘券には憲康王(位875〜86)・真聖女王(位887〜97)代のものであり、吏読(朝鮮語の助字などを漢字の音借などで表記すること)が多く、発見された弘治4年(1491)の段階ではほとんど判読不能であったらしく(『梅渓先生文集』巻之4、序、書海印寺田券後)、これら買田荘券が失われた現在では内容を精査することはできない。

 買田荘券を見た曹偉によると、乙巳(885)以前のこととして、海印寺は「北宮海印薮」と称されていた(『梅渓先生文集』巻之4、序、書海印寺田券後)。「薮」とは「叢林」の意味で、寺院を現わす語である。庚戌(890)以後に「恵成大王願堂」と称されていたが(『梅渓先生文集』巻之4、序、書海印寺田券後)、「恵成大王」とは真聖女王(位887〜97)の寵臣である金魏弘(?〜888)のことであり、寵愛のあまり、没後に女王より「恵成大王」の諡号を賜ったのである(『三国史記』巻第10、新羅本紀、真聖王2年2月条)。この海印寺買田荘券には「康和夫人」の文字があり、金魏弘の妻と推測されている。ところで真聖女王は後に譲位し、「北宮」で薨去しているが(『三国史記』巻第10、新羅本紀、真聖王11年12月条)、この「北宮」こそ「北宮海印薮」、後の「恵成大王願堂」のこととみられている。すなわち真聖女王は、譲位の後、寵臣の願堂に隠棲したことが知られている(『梅渓先生文集』巻之4、序、書海印寺田券後)

 またこの海印寺買田荘券は吏読が多く、発見された弘治4年(1491)の段階ではほとんど判読不能であったらしい。しかしながら、真聖女王・金魏弘夫妻の寄進になる田券であるのであるから、海印寺に寄進された荘園は膨大なものにのぼったとみられる。また海印寺は古代国家がこれまで行ってきたような、直接総力をあげて平地に伽藍を営んだものではなく、僧侶の企画に王権の一部がタイアップし、さらに貴族が大規模な土地を寄進することで寺院の経済基盤とする、新たな寺院の建立形態となっている。これは同じく9・10世紀の日本における御願寺と共通しており、9世紀において日本・新羅両国の寺院形態が同様な動きを示していたことは興味深い。


石造妙吉祥塔(平成25年(2013)3月15日、管理人撮影)。乾寧2年(895)の建立。

高麗前期の海印寺

 真聖女王(位887〜97)代以降、新羅全土で反乱が発生し、以後90年以上に渡って戦乱が続く後三国時代に突入した。この戦乱で特に激烈であったのが後百済の甄萱(位900〜35)と、泰封の弓裔(位901〜18)および高麗の太祖(王建、位918〜43)との36年に渡る戦闘であった。海印寺は後三国時代に突入する以前に、盗賊を侵入を受け、緇軍(僧兵)がこれと交戦して56人が戦死する事態となっていた(「海印寺塔誌(海印寺妙吉祥塔記)」〈韓国金石文追補14〉)。海印寺は新羅と、新羅を浸食しようとする後百済の間に位置していた。一方、新羅と同盟を結んで後百済と対立していたのが高麗で、海印寺は後百済と高麗の間で寺内が騒然とすることになる。

 「伽耶山海印寺古籍」によると、新羅末期の海印寺住持に僧統の希朗がいる。海印寺の住持となり、華厳神衆三昧を得たという(『海印寺事蹟」伽耶山海印寺古籍)。華厳神衆とは『華厳経』世主妙厳品の諸天神衆を対象とした信仰であり、新羅下代より高麗にかけて多くの法会が行われている。

 「伽耶山海印寺古籍」によると、高麗の太祖が百済の王子月光と戦っており、月光は美崇山に立て篭もり、食料も豊富で兵も精強で、敵(太祖)には神のようにみえたという。太祖の力では倒すことができず、海印寺に入って希朗に師事した。希朗は大軍を遣わして助けた。月光は金甲の兵が空に満ちるのをみて、それが神兵であることを知り、恐れて降伏した。太祖はこれによって敬重し、田500結を納めたという(『海印寺事蹟』伽耶山海印寺古籍)

 「美崇山」は太祖が甄萱と戦って敗北した美理寺の誤伝とみられている(李1973)。また太祖と戦っていたのは後百済の甄萱であって、月光王子ではない。『新増東国輿地勝覧』が引用する崔致遠撰「釈利貞伝」(逸文)によると、月光は大伽耶国の月光太子といい、正見10世の孫で、父は異脳王といい、新羅に求婚して夷粲比枝輩の娘を迎えて月光を産んだという(『新増東国輿地勝覧』巻之29、高霊県)。すなわち月光は6世紀に滅亡した大伽耶国の王子であり、10世紀の後百済の王子ではない。希朗が太祖を助けて出現させた「金甲の兵」「神兵」であるが、単に希朗が華厳神衆三昧で得た神衆であるとみてよいが、あるいは前述した海印寺緇軍(僧兵)であったとする(蔡1997)

 史料上に現われないが、海印寺の寺伝によると、希朗は賢俊の弟子であり(李1992)、天福9年(944)に建立された興寧寺の碑文によると、希朗は一時期興寧寺の院主であった(「高麗興寧寺証暁大師宝印塔」〈韓国金石遺文35〉)

 当時、新羅末期の社会の混乱を受けて、後百済の甄萱と高麗の王建が覇権を争っていたが、この争いは海印寺まで飛び火し、海印寺は南岳系と北岳系に分かれて互いに争っていたという。南岳を率いていたのが観恵(生没年不明)で、甄萱の帰依を受けており、北岳を率いた希朗は王建の帰依を受けて、弟子達も互いに水と火のように反目しあっていた。均如(923〜73)は希朗の弟子義順の門弟となっていたが、この争いに嫌気をさして、同じく海印寺にいた仁裕とともに海印寺を出て諸山を遊歴したという(『大華厳首座円通両重大師均如伝』第4、立義定宗分者〈韓国仏教全書4〉)。新羅華厳宗が南岳系と北岳系に分かれて争っていた原因について諸説が分かれており、南岳の義湘系と北岳の縁起系の対立説、逆に南岳の縁起系と北岳の義湘系の対立説、南岳の義湘系と北岳の汎法蔵系の対立説、新羅末期に分派した義湘系の対立説がある(蔡1997)

 兪拓基(1691〜1762)によると、高麗の時の「己酉」年(949)の5月に希朗に「円融無碍不動常寂縁起相由照揚始祖大智尊者」の諡号を賜ったという(『知守斎集』巻之15、記、游伽耶記)。海印寺に木造希朗大師坐像(10世紀中頃)が現存しており、韓国現存最古の肖像彫刻である(朴2010)。海印寺にはかつては希朗像のみならず、順応・利貞像もあったという(『新増東国輿地勝覧』巻30、陝川郡、仏宇、海印寺)


海印寺鳳凰門(平成25年(2013)3月15日、管理人撮影) 。海印寺の天王門で、嘉慶23年(1818)の再建。

大覚国師義天と元景王師楽真@

 高麗時代には朝鮮半島を代表する僧が二人現われる。一人が曹渓宗の祖である知訥(1158〜1210)であり、もう一人が義天(1055〜1101)である。このうち義天は一時期海印寺に住し、また弟子の楽真(1048〜1116)もまた海印寺付近に位置した般若寺に一時期関わっていた。義天は後述する高麗板大蔵経を語る上で欠かせない人物であるから、ここで概略を述べておこう。

 義天(1055〜1101)は高麗文宗(位1046〜83)の第4王子で、母は仁睿太后(?〜1092)である。俗諱は煦である。清寧元年(1055)9月28日に生まれた(「興王寺大覚国師墓誌」〈朝鮮金石総覧90〉)。ある日文宗が自身の子らに「誰がよく僧となって福田利益するだろうか」というと、義天が「私には出家の志があります。お上の命じるところのお心のままに」といい、文宗は「よし」といったという(『高麗史』巻90、列伝第3、宗室第1、大覚国師煦伝)。11歳の時、霊通寺にて景徳国師こと爛円(999〜1066)のもとで出家し、仏日寺の戒壇で受戒した。爛円が示寂するとその一門を継承し、当時存在した六宗派の戒律宗・法相宗・涅槃宗・法性宗・円融宗・禅寂宗を究明し、また学問は六経七略といった外典にも及んだ。父文宗は「広智開宗弘真祐世僧統」の称号を与え、後に順宗(位1083) ・宣宗(位1083〜94)は「恩礼甚厚累加」の法号を加えた。また遼の道宗(位1055〜1101)より経籍・茶香・金帛を贈られ、信縁を結んでいる(「興王寺大覚国師墓誌」〈朝鮮金石総覧90〉)

 元豊7年(1084)正月に入内して、兄の宣宗(位1083〜94)に上奏して入宋を願い出た。宣宗は群臣と会して議したものの、結論は不可となった。そこで義天は宣宗の面前で群臣と議論を行なったが、義天は群臣が認可しないであろうことを理解することができただけであった。元豊8年(1085)4月、王・太后に置き手紙をし、夜陰に乗じて弟子寿介と二人で軽服で貞州に到ったが、発覚して宣宗は驚き、僚官や弟子の楽真・慧宣・道隣を派遣して、この入宋を追認した。一行は貞州より商船に乗って宋に向かった(「霊通寺大覚国師碑」〈朝鮮金石総覧96〉)。7月に宋の都開封の啓聖寺に入り、垂拱殿にて神宗(位1067〜85)の謁見を受けた。杭州知事であった蒲宗孟(1022〜88)の招きにより、杭州の慧因院に入り、周訳経を講じた。義天は経典7500余巻を高麗に持ち帰り、また慧因院は禅寺であったのを講寺とし、租税を免じられることになった(「霊通寺大覚国師碑」〈朝鮮金石総覧96〉)。義天は杭州の華厳座主浄源(1011〜88)と金山寺の仏印禅師(?〜1098)、天台宗の慈弁大師従諌、明州阿育王寺の大覚懐l(1011〜93)などの著名な僧侶と交流を有していた(「僊鳳寺大覚国師碑」〈朝鮮金石総覧99〉)

 義天の母仁睿太后は義天の帰国を願っており、宣宗を通じて宋に上表し、義天の帰国を要請した。義天は在宋14ヶ月にて高麗に帰国し、宣宗と仁睿太后は奉恩寺に出迎えた(『高麗史』巻90、列伝第3、宗室第1、大覚国師煦伝)。また宋・契丹・日本において購入した経典、宋での遊学中に得た書など4,000巻の刊行事業を行った(「霊通寺大覚国師碑」〈朝鮮金石総覧96〉)。この刊行事業は、義天が帰国後に住した興王寺に設置された教蔵都監が実施したものである(『高麗史』巻90、列伝第3、宗室第1、大覚国師煦伝)。この興王寺は義天の父文宗が建立させた寺院であり、兄宣宗が同寺に住持がいなかったことから、詔して義天を住持としたものであった(「興王寺大覚国師墓誌」〈朝鮮金石総覧90〉)。元祐9年(1094)2月に義天ははじめて洪円寺に入り、教学はもとのように行われた。順宗(位1083)が病となった時、実弟の義天に対して「私はかつて大伽藍をつくり、洪円寺としようと願っていたが、今病となってしまった」と述べており、順宗薨去後に実現したものであった(「霊通寺大覚国師碑」〈朝鮮金石総覧96〉)

 義天の母の仁睿太后は華厳経の書写事業を行い(『高麗史』巻11、世家第11、粛宗元年10月丁丑条)、義天の興王寺の講教を聴聞するなど(「霊通寺大覚国師碑」〈朝鮮金石総覧96〉)、仏教への信が篤かった。高麗に天台宗がないことから、天台宗の立宗を念願としており(「興王寺大覚国師墓誌」〈朝鮮金石総覧90〉)、仁睿太后の発願により元祐4年(1089)10月に高麗初の天台宗寺院として国清寺の建立が開始された(『高麗史』巻10、世家第10、宣宗6年10月辛酉条)。しかし仁睿太后の生前には完成せず、完成したのは紹聖4年(1097)2月になってからのことであった(『高麗史』巻11、世家第11、粛宗2年2月条)

 元祐9年(1094)宣宗が薨去すると、義天は海印寺に移って悠々自適となり、ここで生涯を終えようとし、甥の献宗(位1094〜95)が召喚するも応じなかった(「興王寺大覚国師墓誌」〈朝鮮金石総覧90〉)。義天の兄の粛宗(位1095〜1105)が即位すると、しばしば近臣を派遣し、義天の帰都を求めた。義天は都に戻って興王寺に住した。紹聖5年(1098)4月、宣宗の第5王子の澄儼(1090〜1141)を門弟とし、手ずから髪を剃って出家させた。建中靖国元年(1101)8月、病となり、10月5日に右脇を下にして示寂した。享年47歳、僧臈36(「霊通寺大覚国師碑」〈朝鮮金石総覧96〉)


九光楼(平成25年(2013)3月15日、管理人撮影)。道光4年(1824)の再建。

大覚国師義天と元景王師楽真A

 海印寺に関わった義天同様、義天の門弟の楽真(1048〜1116)もまた海印寺付近に位置した般若寺に幼い頃に関わっていたらしく、示寂後に般若寺に碑文が建てられた。

 楽真は俗姓を申氏といい、字を子正といった。利川郡の右旅(士族)の出身で、出家以前に楽真の家の門前に異僧が「この子には優れた才能があり、必ず法器となるだろう」といったという。出家して景徳国師こと爛円の門下に入り、爛円が示寂すると、年下の義天が景徳門下を率いることになった。粛宗が即位する以前、邸宅に楽真を請じて講主としたが、この時集まった道俗聴衆は数百人に及んだという(「般若寺元景王師碑」〈朝鮮金石総覧97〉)

 義天が入宋する際に、楽真に対して「私は宋へと西遊し、その法を求め得たい。私に従う者はただお前だけだ」といった。義天とともに商船で海に出て宋に向かい、開封のち杭州慧因院の晋水法師に謁見した。元祐元年(1086)5月29日に高麗に帰国した。粛宗代には首座となり、崇寧3年(1104)6月に僧統の班に加えられた。楽真は経律論の三蔵計5450巻を常に自ら講読し、後学に教授した。義天は諸宗疏が失われたことから、諸本を購求して刊行事業を行っていた。楽真らは校正を行ない、散佚を防ぐため工匠に命じて鏤板させて刊行を行った(「般若寺元景王師碑」〈朝鮮金石総覧97〉)

 睿宗(位1105〜1122)より「悟空通慧」の法号を賜り(「般若寺元景王師碑」〈朝鮮金石総覧97〉)、政和4年(1114)3月には王師に補せられた(『高麗史』巻13、世家第13、睿宗9年3月癸巳条)。睿宗は帰法寺を楽真が常住の寺院とし、法水寺を楽真が講説儀礼する寺院とした。政和6年(1116)3月3日に示寂した。享年70歳、臈年62。3月6日に帰法寺の西で荼毘にふされ、宣和2年(1120)10月に神位(位牌)を陝川の冶炉県の般若寺の東南の丘に移した(「般若寺元景王師碑」〈朝鮮金石総覧97〉)。般若寺は海印寺と同じく伽耶山に位置しており、李朝時代にはすでに廃寺となっていた(『新増東国輿地勝覧』巻30、陝川郡古跡)


般若寺元景王師碑(平成25年(2013)3月15日、管理人撮影)。楽真(1048〜1116)の碑文で、宣和2年(1120)の建立。



海印寺大寂光殿と三層石塔(平成25年(2013)3月15日、管理人撮影)。大寂光殿は嘉慶22年(1817)の再建。

高麗大蔵経@ 〜初雕本〜

 海印寺には八万四千枚にもおよぶ経板が納められている。これは大蔵経の経板である。仏教の典籍は通常三蔵、すなわち経・律・論に分類される。インドで成立した仏教はやがて多くの部派に分裂していったが、それぞれの部派内部において経典が増加していき、しかも部派単体ではそれぞれ整然とした大系を有していたから、他部派が三蔵の是非について干渉することはなかった。しかしこれら経典が漸次的かつ乱雑に中国に請来されると、漢訳経典群は雑多なものとなってしまったから、整理する必要性が生じた。こうして発生したのが経録であり、経録の中でも『開元釈教録』(730)をベースにして、これら経・律・論の三蔵を中心に若干の中国成立の仏教文献を加えたものを大蔵経といった。

 漢訳大蔵経は、当初は写経を中心に行われており、日本でも奈良時代に行われた光明皇后発願一切経が有名であるが、中国ではやがて木版による雕造事業が行われ、官版は主としたものでも、北宋の太祖の蜀版(勅版・開宝蔵、971)、契丹版(1031〜54)、元版(1269〜85)、明代の洪武南蔵(1372〜1403)、北蔵(1419〜40)、永楽南蔵(1412〜17)、清蔵(龍蔵1735〜38)があり、他にも私版の大蔵経として、北宋の東禅寺版(1080〜1112)、金の趙城蔵(1147〜73)南宋の開元寺版(1112〜46)、思渓版(宋版、1126〜33)、磧砂版(1231頃〜?)、元の白雲宗の普寧版(1277〜90)、明の武林蔵(不明)、嘉興蔵(いわゆる「明蔵」、1589〜1666)がある。日本でも天海による寛永寺版(1624〜44)、鉄眼による黄檗版(1661〜73)があり、とくに現在最も完備し、多く用いられているのが「大正新修大蔵経」(1927)全100巻である。

 高麗でも大蔵経の雕造事業が二度に渡って実施されており、海印寺には再雕本の版木が納められている。この高麗版大蔵経は高麗が国家事業として行ったものであった。

 淳化4年(993)より高麗・契丹間の関係が悪化し、契丹による高麗侵攻が開始される。さらに顕宗(位1009〜31)が穆宗(位997〜1009)を事実上簒奪した形で即位したため、これを口実とされて統和28年(1010)契丹の再侵攻が始まった。この侵攻によって首府開封が陥落し、顕宗は南に逃れて抵抗を続けた。契丹軍は南進を続け、松岳城(開城)を攻囲した。この時顕宗らは契丹軍退散のため大蔵経板本の雕刻を発願し、契丹軍が解囲して撤退したため、尊重されることになった。この大蔵経板本は符仁寺に所蔵されたが、焼失した(『東国李相国全集』巻第25、雑著、大蔵刻板君臣祈告文)。これが初雕高麗大蔵経であり、現存しておらず、印本が韓国に300巻ほど、南禅寺1,878巻ある他、対馬にも残っている。

 初雕本は二度に渡って雕造されたらしく、再雕本高麗大蔵経の校勘資料である守其『高麗国新雕大蔵経校正別録』(韓国仏教全書11)によると、「国前本」「国後本」という表現があり、前者が顕宗期の、後者が二度目の雕造とみられている。

 初雕本は宋版大蔵経、とくに蜀版(勅版)を底本にしたらしく、守其『高麗国新雕大蔵経校正別録』に「旧国宋蔵」と述べている。それに対して再雕本の多くは契丹版大蔵経を基としていた。宋版大蔵経は淳化2年(991)4月に宋より帰国した韓彦恭が請来したもので(『高麗史』巻3、世家第3、成宗10年4月庚寅条)、天禧5年(1021)の「玄化寺碑」によると、この請来は高麗からの要請であったことが知られる(「霊鷲山大慈恩玄化寺之碑銘」高麗国霊鷲山大慈恩玄化寺碑陰記〈朝鮮金石総覧73〉)。義天の「代宣王諸宗教蔵彫印疏」によると、「顕祖(顕宗)則ち五千軸の秘蔵を彫り、文孝(文宗)すなわち十万頌の契経を鏤る」(『大覚国師文集』巻第15、代宣王諸宗教蔵彫印疏)とあるように、顕宗の時の五千巻の雕印事業についで、文宗期(位1046〜83)にも雕印事業が実施されたことが知られる。

 大安元年(1087)に宣宗は開国寺に行幸して大蔵経が成ったことを祝っており(『高麗史』巻10、世家第10、宣宗4年2月甲午条)、同年3月には興王寺に行き(『高麗史』巻10、世家第10、宣宗4年3月己未条)、4月には帰法寺に行幸して大蔵経が成ったことを祝っていることから(『高麗史』巻10、世家第10、宣宗4年4月庚子条)、文宗期(位1046〜83)に二度目の雕造が行われ、雕造が完成した大安元年(1087)に大寺に所蔵するため順次印刷されたらしい。

 義天が述べるところによると、『開元釈教録』『貞元続開元釈教録』に所載される経典から、宋の新訳経論まで総計6,000巻の刊行事業を行われたとし、さらに日本の諸僧に対して経典を求めている(『大覚国師全集』巻第14、寄日本国諸法師求集教蔵疏)。また「今得るところの新旧製撰諸宗義章を以て、敢えて私秘せず、叙してこれを出し、後に獲るところあらば、また随いてこれを録せんと欲す。脱すれば或いは将来して函帙に編次し」(『新編諸宗教蔵総録』序)とあるように、文宗期(位1046〜83)の二度目の雕造後に続大蔵経の企画を行なっていたことが知られる。宋・契丹・日本において購入した経典、宋での遊学中に得た書など4,000巻は刊行され(「霊通寺大覚国師碑」〈朝鮮金石総覧96〉)、これらの校正は楽真らが行ない、工匠に命じて鏤板して散佚を防ぐため刊行を行った(「般若寺元景王師碑」〈朝鮮金石総覧97〉)。この刊行事業は興王寺に設置された教蔵都監が実施した(『高麗史』巻90、列伝第3、宗室第1、大覚国師煦伝)。すなわち文宗期の二度目の大蔵経雕造6,000巻の後、義天が続大蔵経の企画を行ない、4,000巻刊行したことが知られる。東大寺図書館所蔵の高麗版『大方広仏華厳経随疏演義鈔』第5巻末尾に「大安十年甲戌歳(1085)高麗国大興王寺奉宣雕造」、同第20巻末尾に「寿昌三年丁丑歳(1097)高麗国大興王寺奉宣雕造」、愛知県真福寺蔵の高麗版『釈論通玄鈔』にも「寿昌五年己卯歳(1099)高麗国大興王寺奉宣雕造」とあり(菅野1922)、義天の続大蔵経の刊行事業が寿昌5年(1099)まで継続されたことが知られる。


海印寺修多羅蔵月門(平成25年(2013)3月15日、管理人撮影)。弘治元年(1488)の建立。

高麗大蔵経A 〜再雕本〜

 符仁寺に納められていた初雕本は、高宗23年(1236)のモンゴル軍の攻撃によって焼失した。モンゴルの高麗侵攻は高宗18年(1231)より開始されたが、モンゴル軍は海戦が苦手であることから、高宗19年(1232)高麗は江華島に遷都し、以後至元7年(1270)まで38年間にわたって江華島を根拠地とした。

 現在、海印寺に所蔵される再雕本は、高宗23年(1236)の初雕本焼失からまもなく雕造が企画されたらしい。この事業の中心となったのが当時高麗を支配した崔氏であった。12世紀後半から高麗では武臣による短命な政権が続いていたが、崔致遠(1149〜1219)が天慶3年(1196)に武臣政権を掌握すると、以後崔氏が4代に渡って政権を掌握した。崔致遠の子崔ウ(王へん+禹。UNI7440。&M021095;)(?〜1249)はモンゴルの侵入によって国家多難な中、新たに都監をたて、私財を傾けて再雕事業を行った。子の崔(?〜1258)もまた父の業を継いで再雕事業を行っていた(『高麗史』巻129、列伝第42、叛逆3、崔忠献伝)

 初雕本焼失翌年の高宗24年(1237)、高宗(位1213〜59)は李奎報(1168〜1241)に命じて大蔵経刻板君臣祈告文を作成させている(『東国李相国全集』巻第25、雑著、大蔵刻板君臣祈告文)。この雕造は16年後に完成し、高宗38年(1251)9月、高宗は城西の門外にある大蔵経板堂に百官を率いて行幸し、供養を行った(『高麗史』巻24、世家第24、高宗38年9月壬午条)

 初雕本が蜀版(勅版)を底本としたのに対して、再雕本は契丹蔵を底本とし、初雕本・蜀版(勅版)にて校合していた。前述したように初雕本は蜀版(勅版)を底本としていたから、内実は契丹本を底本にして蜀版(勅版)にて校合したとみてよい。再雕本高麗大蔵経の校勘資料である守其『高麗国新雕大蔵経校正別録』によると、「丹蔵経」「丹本経」「丹本」という表現があり、いずれも契丹蔵を意味している。契丹蔵は、守其によると『開元釈教録』とよく一致することから、唐代の大蔵経に符合するとみられている(妻木1910)

 高宗朝に再雕大蔵経が完成したことは、奥付にみえる干支によっても知られる。最も早い干支をもつのが『般若波羅密多経』(羽箱)の「戊戌」(1238)であり、最も遅い干支をもつのが「目録」(更箱)の「戊申」(1248)となっている(小野1910)

 高麗大蔵経は印経され、日本に多く請来されており、記録に残るだけでも43部請来された。日本ではその後黄檗版大蔵経が印経され、これが近世日本における主流の大蔵経となっていたが、その一方で高麗板大蔵経は忍澂(1645〜1711)によって錯簡が少ないことが高く評価された。ある日忍澂は『大乗本生心地観経』をみていたが、文義が通じなかったことがたびたびあったため、誤脱があることを疑っていたが、安然の著作に引用されているところと見比べてみるとやはり訛脱があり、その数は一つや二つではなかった。そのため忍澂は当時流布していた北蔵(明蔵の一つ)に訛脱がかなり多いことを知った。そこで日本に大蔵経の善本を得て北蔵と校合して漏脱を補った定本にしたいと誓ったが、忍澂が善本を発見するまで30年の長い月日を経なければならなかった(『獅谷白蓮社忍澂和尚行業』巻上)

 忍澂は、中国の開版大蔵経は、宋・元の二朝で刻板が行われていたが、元末の戦乱で焼失しており、明蔵が請来されたが誤りが多く、宋・元の大蔵経も散失して全函を得ることができず、諸方を捜訪してようやく一・二巻、もしくは一・二帙にすぎず、ェ文年間(1661〜72)に鉄眼道光(1630〜82)が行った黄檗版も、明蔵を基としているためやはり誤りが多かった。そこで忍澂が注目したのが高麗版大蔵経である。高麗版は当時10余寺ほどに所蔵されており、当時でも完存しているものは少なかったが、忍澂は高麗版を宋官版と諸国刊行の経本によって校合したと考えており、「万国無双の善本」と評価した。当時建仁寺に高麗版大蔵経を一蔵が完備していたため、忍澂は法然院に所蔵していた黄檗版を、建仁寺蔵の高麗版大蔵経によって校合したのであった(『獅谷白蓮社忍澂和尚行業』巻下)

 忍澂が評価した建仁寺蔵の高麗版大蔵経は、天保8年(1837)の火災により大部分が焼失し、今では326帖136冊を残すのみになっている。それでも忍澂の高麗大蔵経に対する高い評価は「縮冊大蔵経」編纂時の底本に、増上寺蔵高麗版大蔵経が選ばれたことでも明らかであり、現在最も完備し、多く用いられている「大正新修大蔵経」(1927)全100巻においても底本になったことで、高麗大蔵経が優れた底本であることを実証した。

 その一方で、近年中央アジアなどで発見された3〜4世紀の漢訳経典の古写本は「大正新修大蔵経」の文章とはかなり異なっており、現行の経本が古経典とはかなり変容していたことが知られており、ひいては「大正新修大蔵経」の底本となった高麗版大蔵経自体も、経典のもともとの姿とはかなり変容していたことになる。それでも厳格な版刻や戦乱・儒教による仏教弾圧をくぐり抜けて今日まで保存されていること、また「大正新修大蔵経」の底本となって世界中の仏教研究者が用いる標準的な大蔵経のテキストを提供したことは揺るぎのない事実である。


海印寺修多羅殿(平成25年(2013)3月15日、管理人撮影) 。弘治元年(1488)の建立。

高麗末期の海印寺

 海印寺には高麗王朝の実録が納められていた。『高麗史』によると、高宗14年(1227)9月に撰修された明宗実録は一本は史館に、もう一本は海印寺に納められたとある(『高麗史』巻22、世家第22、高宗14年9月庚辰条)。しかしながらすべての実録が納められていたわけではなかったらしく、高麗王朝実録は稿本とともに史局にて所蔵されていたが、兵火によって残部が少なくなったため、王命によって郭枢(1338〜?)が海印寺に移した(『高麗史』巻112、列伝第25、白文宝伝)。移された歴代実録や経史などの諸書は洪武12年(1379)9月に倭寇が丹渓県・居昌県・冶炉県を襲撃し、嘉樹県に至った際に、海印寺より善州の得益寺に移された(『高麗史』巻134、列伝第47、辛グウ2年9月条)


海印寺法宝殿(平成25年(2013)3月15日、管理人撮影)。弘治元年(1488)の建立。

高麗版大蔵経板の海印寺への移動と印経事業

 大蔵経板は淳祐11年(1251)9月の完成以来、たびたび印経事業が行われている。至元5年(1339)に龍巌寺に納める大蔵経として、江華島の板堂にあった大蔵経板より印経が行われている(『東文選』巻之68、記、霊鳳山龍巌寺重創記)。洪武12年(1379)4月には神勒寺大蔵閣を納めるための印経が行われている(『東文選』巻之76、記、驪興郡神勒寺大蔵閣記)

 李朝が建国されると、太祖(位1392〜98)は洪武26年(1393)7月に印経事業を行っており、自ら跋文を撰している。これによると、太祖は即位の初めに古塔を再建し、大蔵経を塔に安置することを群臣とともに願っていたという(『海印寺事蹟』印経跋文)。この古塔とは演福寺の五層塔のことであり(『太祖実録』巻第4、太祖2年10月己丑条)、洪武25年(1392)閏12月4日に僉書中枢院事鄭惣に対して願文作成を命じるも、かえって太祖の仏教信仰を諌言され、太祖の不興を買っていた(『太祖実録』巻第2、太祖元年閏12月庚辰条)。そのため太祖自ら跋文を撰したらしく、洪武26年(1393)10月17日に演福寺にて大蔵経を披露した(『太祖実録』巻第4、太祖2年10月己丑条)

 経板は洪武31年(1398)5月に2,000人の人員を用いて支天寺に移動している(『太祖実録』巻第14、太祖7年5月戊午条)。経板はさらに建文元年(1399)正月に慶尚道監司に命じて海印寺に移された(『定宗実録』巻第1、定宗元年正月庚辰条)。海印寺はかつて高麗王朝実録が所蔵されたこともあり、山深い地にあるため、戦火を避ける地としてはうってつけの場所であった。海印寺に移動された大蔵経板は、上王となっていた太祖が私財を投げ打って印経事業を行っている(『定宗実録』巻第1、定宗元年正月庚辰条)。太祖薨去後の永楽11年(1411)3月に太祖が建立した開慶寺に大蔵経を安置するため、太宗(位1400〜18)は大蔵経印経を命じており(『太宗実録』巻第25、太宗13年3月庚寅条)、同年5月までに完成して開慶寺に納められた(『太宗実録』巻第25、太宗13年5月丙午条)

 李朝において太宗・世宗(位1418〜50)代に仏教は弾圧され、日本の請いによって印行された大蔵経は多くが日本に贈られていた。しかし世祖(位1455〜68)は仏教を信仰し、これを保護する政策に転換したため、天順元年(1457)冬に印行事業を企画した。当時大蔵経の大半が日本に贈られてしまい、朝鮮に現存するものが少なかったためであるという(『海印寺事蹟』印大蔵経五十件跋)。天順2年(1458)2月に大蔵経50部の印行を開始し、6月に完了した(『世祖実録』巻第8、世祖3年6月戊午条)。この時用いられた資材はすべて官で準備したものであったが、忠清道で紙51,126巻、墨875丁、黄蝋60、全羅道で紙99,004巻、墨1,750丁、黄蝋125、慶尚道で紙99,004巻、墨1,750丁、黄蝋70、胡麻油100斗、江原道で45,126巻、墨875丁、黄蝋125、黄海道で51,126巻、墨875丁、黄蝋60におよんだ(『世祖実録』巻第8、世祖3年6月26日条)。また同年7月にも興天寺に安置するため、海印寺大蔵経の3部印行を行っている(『世祖実録』巻第13、世祖4年7月壬子条)。これに関連してか、世祖は海印寺にて仏事を行おうとしていたが、結局実施されなかった(『世祖実録』巻第13、世祖4年7月癸丑条)

 弘治13年(1500)春に国王燕山君(位1494〜1506)の睿算天長(長寿)を祈るため、王妃慎氏(1476〜1537)の発願により海印寺大蔵経を印行した。翌弘治14年(1501)4月に三日間転読が行われている(『海印寺事蹟』印成大蔵経跋)


海印寺解脱門(平成25年(2013)3月15日、管理人撮影)。嘉慶23年(1818)の再建。

海印寺経板庫の重修と学祖@

 海印寺の伽藍配置は、前方(南側)から鳳凰門・解脱門・九光楼・大寂光殿・経板庫(修多羅蔵・法宝殿・東西経庫)がおおむね直線的に配置されているが、大寂光殿と経板庫の軸を除いて、各段階の軸は少しづつずれており、大寂光殿と経板庫を以外は各領域を地形に合わせて配置したことが知られる。また大寂光殿の前庭には新羅時代の三層石塔と石燈があることから、大寂光殿と経板庫の配置は新羅時代の創建時のものを踏襲していることが知られる。

 海印寺に大蔵経板が移される建文元年(1399)以前、経板庫の場所にはいかなる建造物があったのか不明であるが、海印寺には高麗王朝実録が収蔵されていたというから(『高麗史』巻112、列伝第25、白文宝伝)、あるいは実録を納める倉庫があったとみられる。

 経板庫について、のちに成宗(位1469〜94)が「この寺すなわち世廟(位1455〜68)の時、大蔵経板を蔵す。貞熹王后(1418〜83)、もろもろを学祖に属す。前日学祖(?〜1508頃)、来たりて啓していわく、世祖、大蔵経を以てこの寺に蔵すと」と述べており(『成宗実録』巻第229、成宗20年6月甲寅条)、また弘治元年(1488)2月に洪応が「板堂が造営されてからまだ30年ほどしかたっていないのに、どうして壊れるに至ったのでしょうか」(『成宗実録』巻第213、成宗19年2月丙辰条)と述べている。このことから経板庫の造立は世祖(位1455〜68)統治下の始め頃に造立された堂を基としていることが知られる。世祖は信眉(1403〜80)・学祖(?〜1508頃)らに経板庫を視察させたところ、狭いという報告を受けたため、慶尚道監司に命じて40間ほど拡張させている(『海印寺事蹟』海印寺重修記)。これは天順2年(1458)2月に実施された印行事業(『世祖実録』巻第8、世祖3年6月戊午条)に関連するものとみられるから、天順年間(1457〜64)頃に経板庫が造立されたことが知られる。

 成化4年(1468)、貞熹王后は海印寺経板庫が傾いていることから、重修することとし、成化17年(1481)に海印寺住持職を停止し、学祖に海印寺を統轄させることとした(『海印寺事蹟』海印寺重修記)。この学祖こそが仏教弾圧を強行する李朝の政治情勢下、世祖・成宗や歴代の王妃の信任を得て現存する海印寺経板庫を重修した勧進僧である。

 学祖の生没年は不明である。俗姓は金氏で、父の名は不明であるが、母は安東に住しており、金永銓は実弟にあたり(『成宗実録』巻第181、成宗16年7月壬子条、史臣曰)、妹の夫に金允チ(離−隹。UNI79BB。&M074393;)がいる(『睿宗実録』巻第6、睿宗元年7月癸卯条)

 学祖は勧進を得意としたらしく、その事績の多くは寺院再建を伴った時に現われる。成化3年(1467)2月に官命によって楡岾寺に派遣され、同寺を重創している(『世祖実録』巻第41、世祖13年2月癸丑条)。翌成化4年(1468)正月には楡岾寺を重修する学祖、および工匠のために駅騎を給付している。この頃、江原道では同時に学悦によって洛山寺の造立が行われており、学祖・学悦は親しかったから、王族・臣下・士庶にいたるまで尊崇したため江原道は騒然となり、問題となったという(『世祖実録』巻第45、世祖14年正月甲申条)

 成化4年(1468)4月には明使が成化帝の勅命によって金剛山に幡を懸けることとなったため、承政院から学祖・学悦に対して事前の措置を行うことを命じている(『世祖実録』巻第46、世祖14年4月己亥条)。成化4年(1468)に世祖が薨去するとその殯殿法席に連なり、多くの供物を賜った。この時、中枢府知事の韓継禧に楡岾寺の賜田を全羅道の肥沃な田にするために、上表する方法を尋ねている(『睿宗実録』巻第1、即位年9月丁丑条)

 世祖は京中に納める民間の田税貢物について、代納を許していたが、その倍の値を徴して、この値を代納したといい、また刊経都監には代納の権があったから、豪商富豪の多くはこれを好んで、学祖・信眉・学悦に争って納付していた(『睿宗実録』巻第3、睿宗元年正月壬午条)。学祖は当時、学悦・信眉・雪俊らと並んで多くの蓄財をした僧徒の一人に数えられており、貨殖のため民が疲弊する弊害が指摘されていた(『成宗実録』巻第68、成宗7年6月丁酉条)

 成化5年(1469)6月、奉先寺が完成すると学祖・学悦(生没年不明)は工事の監察を行った(『睿宗実録』巻第6、睿宗元年6月己卯条)。同年9月に睿宗が奉先寺に幸して、世祖の忌辰のため七日仏事を設けた。学祖・学悦は奉先寺建立のため、洛山寺から来ては厨舎などを改創しており、官吏に称讃されていた(『睿宗実録』巻第7、睿宗元年9月戊子条)。成化8年(1472)正月、学祖は安東・平海に帰った(『成宗実録』巻第14、成宗3年正月壬寅条)

 学祖は世祖・成宗の信任を得ており、世祖期には信眉・学悦とともに「三和尚」と称された(『成宗実録』巻第161、成宗14年12月戊子条)。成化17年(1481)、学祖は海印寺を統轄することとなった(『海印寺事蹟』海印寺事蹟記)。当時李朝は儒教国家であったため、多くの排撃の憂き目にあった。例えば成宗期には多くの事績が散見されるが、実録などでは「(史)臣いわく」として、学祖が姦淫・蓄財を行ったとして誹謗している(『成宗実録』巻第103、成宗10年4月己亥条)。儒者の反感は実行行為を伴って現われ、成化18年(1482)5月には儒生4・5人が円覚寺の池で放尿をし、注意した僧徒と諍いとなり、学祖の衣襟を奪い、頭を扇子で殴打された。この事件により大妃(貞熹王后)は儒生を拘禁させ(『成宗実録』巻第141、成宗13年5月辛巳条)、首犯の益慎は杖100、以下は杖90となった(『成宗実録』巻第141、成宗13年5月丁亥条)

 成化19年(1483)12月に学祖は病となり、金山郡直指寺にいる学祖のもとに成宗より医者を派遣された(『成宗実録』巻第161、成宗14年12月戊子条)。成宗の祖父世祖と祖母貞熹王后(1418〜83)が学祖を尊崇しており(『成宗実録』巻第163、成宗15年2月癸未条)、またこの頃には三和尚のうち信眉・学悦は示寂していたから、さらなる尊崇を得ていたのである。しかし学祖が退居した直指寺にて産業を営んでおり、これによって民が疲弊する事態になったともいう(『成宗実録』巻第161、成宗14年12月戊子条)。そのため諸官の弾劾を受けたが、成宗は祖父世祖が尊崇していたことから、ついに弾劾を受け入れることはなかった(『成宗実録』巻第169、成宗15年8月戊午条)

 成化21年(1485)7月、奉先寺の寺穀を運送させようとした官に対して、奉先寺の住持であった学祖は承政院に詣でて、その中止を訴えた。官は成宗に上啓して実行を願い出たが、成宗は奉先寺には世祖の真殿があり、もし穀がなく食べ物がなければ、寺は空寺となってしまい、また穀は貞熹王后が賜ったものであるから奪ってはならないと命じた(『成宗実録』巻第181、成宗16年7月壬子条)

 成化23年(1487)11月、学祖は海印寺板堂の修補監役の辞職を願い出た。学祖は承政院に詣でて、「私はかつて貞熹王后の命を受け、海印寺大蔵経板堂を重創しようとしたが、力及ばず年月が過ぎ、風に砕かれて雨は漏り、壊れて殆どつきようとしている。願うことは年少の僧を選んでこれにあてていただきたい」といった。成宗は「この堂を修造しようとするのは、仏のためではない。隣国が請い求めるためなのである。お前はもし重修できないのであれば、ただちに早く来て告げるべきであった。どうして今になって来て辞めようとするのか」と述べた。学祖は「国家の力をかりなかければ重修することができず、あえて来て上啓するだけなのです」といった。成宗は承政院に対して「学祖は先王の時に重んじられた僧である。予もまた親しく貞熹王后の命を聞いている。他の僧に代えてはならない。学祖に司らせなさい。今年、慶尚道はやや豊作で、これを補修の資材にあてる。もしなお不足があれば、ただちに内需寺でこれを補いなさい。ただしただ板堂を修するのであって、この寺を重修してはならない」と述べた(『成宗実録』巻第209、成宗18年11月癸卯条)。その一方で成宗は臣下より海印寺板堂の重修のため帰厚署の綿布を賜ったことの非と、学祖の弾劾を受けた際に、先后(貞熹王后)の遺志があり、重修しないのには忍びないと述べていた(『成宗実録』巻第213、成宗19年2月壬子条)。また学祖は貞熹王后薨去後も、仁粋王妃(1437〜1504)・仁恵王大妃(?〜1498)の信任を得ており(『海印寺事蹟』海印寺重修記)、群臣の弾劾に遭いながらも、内廷の後援を得て海印寺の重修を進めることができた。



海印寺法宝殿と板庫(平成25年(2013)3月15日、管理人撮影)。弘治元年(1488)の建立。

海印寺経板庫の重修と学祖A

 海印寺の重修工事は、板堂を30間増置するとともに、板堂にあった3間の仏殿を寂光殿の西に移転して真常殿とし、また3間の祖堂も真常殿の側に移して鮮行堂とした。翌年には米布を施され、その弘治2年(1489)にも同じく米布が施された(『海印寺事蹟』海印寺重修記)。また毘盧殿も重修して大寂光殿と改めているが(『海印寺事蹟』海印寺重修記)、弘治4年(1491)に重修中の毘盧殿の梁上より統一新羅時代後期の海印寺買田荘券43通が発見されている(『梅渓先生文集』巻之4、序、書海印寺田券後)。弘治3年(1490)9月に僧侶を集めて千僧法会を行ない、落慶供養を行った(『海印寺事蹟』海印寺重修記)

 海印寺はたびたび失火で多くの建物が焼失しているにもかかわらず、経板庫のみ建立から一度も焼失していないが、経板庫は高く台地をつくり、周囲には石垣を積み、土塀を設けており、防災する上で有益となっている。経板庫は、南側の修多羅蔵、北側の法宝殿を並列的に建て、その中間の両端に東西の雑板庫を建てる。修多羅蔵の中央間にある通用門は月門といい、楕円形の形状をしている。修多羅蔵・法宝殿ともに中央の通用門以外は柱間には中枋(貫)があり、中枋の上下にはそれぞれ換気のための連子窓が開いている。礎石は自然石であり、礎石の上に円柱を立て、貢抱(斗きょう)は李朝前期の様式となっている。天井は椽背天井(化粧屋根裏)となっており、地面は土間床となり、その間中間に板架を立てて大蔵経板を横に立てて保管している。土間床には砂利・塩・炭などを混ぜており、自然に湿気の調節が出来るようになっている。また連子窓も壁によって大きいものや小さいものを設置しているが、周囲の山々から吹く風に考慮され、位置と大きさは現在の航空気流学に通用するものと評されているという。

 これらの技術的な配慮によって、大蔵経板は700年を経ても状態がよく、1975年に経板を保存する目的で新たな経板庫を新築して移したことがあったが、700年もの間殆ど問題のなかった経板にひびが入ってしまい、本来の場所に戻すことになった(金2010)

 海印寺大蔵経板堂の重修は群臣の猛反発を受けた。とくに官費を用いることについて、李朝の国教たる儒教ではなく、まるで崇仏国家であるかのようであると皮肉られた。成宗は排仏政策を行ない、40歳以下が僧になることを許さず、新寺の建立を禁止し、また度牒が無い僧を速やかに還俗させていた。弘治元年(1488)2月に成宗は「今、海印寺の板堂、すなわち国家新たにこれを創るに非ざるなり。ただ修葺するのみ」と弁明しているが、洪応からは「だいたい一人二人の僧徒が同心勧誘して、なおよく大寺が建立できるようですが、ましてや学祖の財産ではなおさらではないのでしょうか。国家の助けなど必要ではないのです。板堂が造営されてからまだ30年ほどしかたっていないのに、どうして壊れるに至ったのでしょうか」といわれるありさまであった(『成宗実録』巻第213、成宗19年2月丙辰条)

 それでも成宗は海印寺が位置する慶尚道観察使の成俶に対して、海印寺板堂重修について学祖の申すところを聞いて随時給付するよう命じる書簡を下しており(『成宗実録』巻第214、成宗19年3月丙寅条)、学祖を信任して海印寺板堂の重修を進めていた。成宗の海印寺板堂の重修の意志が固いとみるや、群臣たちは学祖を弾劾し始めた。陜川郡冶炉県にかつて月光寺があり、廃寺となって基壇のみが残る状態であったが、この月光寺には田があり、廃寺となった後は郷校の学田となっていた。学祖は海印寺板堂を重修し、月光寺の田が肥沃であることをみて、僧道仁に月光寺に居住させ、田を耕作させて郷校生がつかうのを止めさせ、田は月光寺に帰属した(『成宗実録』巻第239、成宗21年4月乙未条)。この件で群臣は学祖を何度も弾劾したが、成宗が郷校が廃寺となっていた月光寺の田を使っていたのだから、寺が復興すれば寺に帰属するべきであるとして弾劾を退けた。また弘治3年(1490)6月にも、司憲府が成宗に対して、学祖の弟子宗稔が私賎を違法にも僧としたため、宗稔を杖百とした上で還俗させるべきであるが、学祖の罪をどうすべきか上問したところ、成宗は宗稔を還俗して杖叩は実施せず、学祖の罪は問わないとした(『成宗実録』巻第241、成宗21年6月庚子条)。これ以後、学祖に対する弾劾は10回以上に及んだが、成宗は一切取上げることはなかった。

 弘治9年(1496)4月、帯方夫人宋氏は安神寺にて広く城中の士族・寡婦および僧尼を集めて大法会を行った。この法会の学祖が宋氏を施主として行ったといい、今度は宋氏を弾劾する者がおり(『燕山君日記』巻第14、燕山君2年4月庚子条)、さらには学祖が仏事に参加したとして弾劾されたが、国王燕山君が「学祖ら、僧を以て仏事に参ず。何の罪ぞあらん」としてこれを一蹴し、宋氏への弾劾も退けた(『燕山君日記』巻第14、燕山君2年4月辛丑条)。同年6月に学祖は司憲府に拘禁された。これは学祖が多くの徒衆を率いて江原道の各官の弊害となっていたためとしているが、燕山君は即刻学祖を釈放するよう命じている(『燕山君日記』巻第15卷、燕山君2年6月丙戌条)。抗命する司憲府に対して、燕山君は昭恵大妃(1437〜1504)の命で解放するのだと弁明する(『燕山君日記』巻第15、燕山君2年6月丁亥条)。成宗の信任を得ていた学祖であるが、燕山君も父成宗同様の信任を寄せていたらしく、学祖が月光寺と郷校の論田について燕山君自身が「学祖の田、成宗朝とりすでに然り。 成宗仏を好まず。しかるにすでにかくのごとし。今もしこれを奪えば、すなわちまたまさに尽く僧人の田を奪わんとすや」と述べている(『燕山君日記』巻第25、燕山君3年7月丙辰条)。弘治11年(1498)7月には朴耕供より、学祖が永膺大君(1434〜67)夫人宋氏と密通していると誣告された(『燕山君日記』巻第30、燕山君4年7月丙午条)

 弘治12年(1499)10月には永嘉玄覚撰『慕道志儀』の要訣を慶州刺史魏静が編修した『禅宗永嘉集(註)』の開板にあたって大幹縁として名を列している。弘治13年(1500)11月には『牧牛修心訣』を雕刻している。同書は知訥の「修心訣」を信眉がハングルによる注解を加えたものであり、伽耶山鳳栖寺にて開板された。また同年『賢首諸乗法数』を開板している(藤田1991)

 弘治16年(1503)4月、明使が金剛山に行って皇帝・皇后の幡を懸け、仏に供えて法会を行うこととなり、学祖を召して措置を施させた(『燕山君日記』巻第49、燕山君9年4月戊戌条)。中宗(位1506〜44)になると、臣下からの国王への学祖に対する弾劾は、ただの弾劾の範疇を超えて、臣下より学祖の誅殺を要求されるようになる(『中宗実録』巻第6、中宗3年5月戊申条)。最後の弾劾を受けたのが正徳3年(1508)5月のことであり(『中宗実録』巻第6、中宗3年5月壬子条)、学祖はこれ以降記録にみえないことから、この時期以降に示寂したらしい。


応真殿(平成25年(2013)3月15日、管理人撮影)。嘉慶22年(1817)の再建。

李朝中期以降の海印寺

 李朝では高麗末期の仏教酷信による弊害を防止するため、太祖期(位1393〜98)よりある程度の仏教抑制策がとられてきた。仏教信仰に熱心であった太祖とは異なって、太宗期(位1401〜18)には徹底した排仏政策がとられ、寺刹の土地田畠を国有化し、奴婢も減じた。

 さらに世宗期(位1418〜50)の永楽22年(1424)4月には曹渓宗・天台宗・総南宗を併せて禅宗とし、華厳宗・慈恩宗・中神宗・始興宗を併せて教宗とし、朝鮮に7宗あった宗派はわずか2宗派のみにさせられた。また寺院は全国で36寺として、禅宗・教宗の2宗派のいずれかのみに属させた。このうち海印寺は教宗寺院となり、もともと田80結保有していたのを、120結に増加されるとともに、僧100人を居住させることとなった(『世宗実録』巻第24、世宗6年4月庚戌条)

 李朝において仏教排仏が基本的方針となっていたのに対して、仏教信仰が盛んである日本では高麗大蔵経板の請来を望むようになる。

 仏教排斥を行っている李朝には大蔵経板は無用の物であるから、日本に引き渡すよう希望したが、李朝は応じなかった(『世宗実録』巻第22、世宗5年12月壬申条)。それ以降、大蔵経は印経して日本に供給されるようになった。成化元年(1465)に琉球は使者を朝鮮に遣わし、朝鮮人漂流民を送り届けるとともに、天界寺に安置するため大荘尊経(大蔵経)を求め(『世祖実録』巻第26、世祖7年12月戊辰条)、大蔵経一部他を得て琉球に戻った(『世祖実録』巻第27、世祖8年正月辛亥条)。成化18年(1482)4月には日本の足利義政が栄弘首座を朝鮮に遣わし、大和円成寺に安置するための大蔵経を請うた(『成宗実録』巻第140、成宗13年4月丁未条)

 停滞していた李朝仏教であるが、豊臣秀吉の文禄・慶長の役で僧侶が義僧兵を率いて活躍したことから、復興の兆しがみえた。その中でも最も知られるのが松雲大師こと惟政(1544〜1610)である。義僧兵の総指揮官となり、また講和交渉や捕虜刷還も行った人物である。惟政は万暦36年(1608)に病となり、国王より後金に備えるよう命じられたが、応じることが出来なかった。伽耶山に入って闘病生活に入り、国王から医者を遣わされた(「慈通弘済尊者四溟大師石蔵碑銘」〈朝鮮金石総覧243〉)。海印寺は華厳宗寺院であったが、碧巌覚性(1575〜1660)のもとで禅宗の曹渓宗寺院となる。碧巌覚性は師の休静(1520〜1604)とともに俗離山に入った後、徳裕山・伽耶山・金剛山と遊歴した(「華厳寺碧巌大師碑」〈朝鮮金石総覧279〉)。万暦23年(1595)に海印寺にいたが、文禄の役後のことであったため朝鮮が日本使と交渉するのを聞いて批評したという(「法住寺碧巌大師碑」〈朝鮮金石総覧281〉)。それ以後もたびたび海印寺に住しており、海印寺の禅寺化を促進した。

 海印寺は山奥深い地に位置しており、現在でも大邱から高速道路を自動車で走って約1時間15分ほどかかる。このことは外敵の侵入を困難なものとし、元の高麗侵攻、倭寇、豊臣秀吉による文禄・慶長の役といった戦乱に際しても焼失することなく、このことから「三災不入」と称されてきた。李朝時代には特別な地勢のもとにあると考えられ、経板庫の上には鳥も上空を飛ばず、瓦屋根の上に止まらない怪奇があると考えられていた(『択里志』卜居総論、名山名刹)

 しかしながら康熙34年(1695)の失火により東側の諸寮、満月閣(食堂)・円音閣(正門)が焼失し、翌康熙35年(1696)春にも西側の諸寮、無説殿(講堂)が焼失した。さらに乾隆8年(1743)、、乾隆28年(1763)、乾隆45年(1780)にも焼失しており、檀越らによって再建・復興している。しかしながら嘉慶22年(1817)2月の火災は経板庫以外の海印寺のすべてを焼き尽くすほどの損害を与え、数千余架にわたる建造物は灰燼と化した(『海印寺事蹟』海印寺失火蹟)

 大寂光殿は、もともとは毘盧殿といったが、弘治3年(1490)に大寂光殿と改められた(『海印寺事蹟』海印寺重修記)。弘治4年(1491)に学祖によって重修されたが、この時、梁上から統一新羅時代後期の海印寺買田荘券43通が発見されている(『梅渓先生文集』巻之4、序、書海印寺田券後)。本尊は木造毘盧舎那仏像で、高麗時代の造立である。嘉慶22年(1817)の火災で焼失し、嘉慶23年(1818)6月に再建された(『阮堂全集』巻7、伽耶山海印寺重建上梁文)

 冥府殿は、最初から海印寺にあった建物ではなく、もとは仏母山の聖興寺にあったのを、聖興寺が廃寺となったため康煕5年(1666)海印寺に移築したものであった(「冥府殿梁間録」〈李1992所収〉)。この建物も嘉慶22年(1817)の火災で焼失したため、咸豊23年(1873)に普浄和尚によって再建された。

 光武2年(1898)から同3年(1899)にかけての高宗(位1863〜1907)が発願して大蔵経を印経している(『海印寺事蹟』印経事実)。大正4年(1915)には朝鮮総督寺内正毅(1852〜1919)が明治天皇の冥福を祈願を目的とし、泉涌寺に納めるための印経を行っている(『海印寺事蹟』印大蔵経跋)

 昭和10年(1935)4月に満洲国皇帝溥儀は日本を訪問したが、溥儀が古典籍を好んだことから、宮内省図書寮と帝室博物館は、所蔵の善本珍籍を陳列したが、溥儀はとくに黄檗版大蔵経と高麗大蔵経に眼をとめ、係員に下問する所があった。昭和11年(1936)秋に満洲国宮内府より黄檗版大蔵経と高麗大蔵経印出の希望を日本宮内省と朝鮮総督に申請した。溥儀は毎朝線香を灯して坐禅するほど信仏篤かった。昭和12年(1937)に材料を調達しており、紙は10万枚、墨1万2千丁を必要としたが、墨は京城(現ソウル)市場の墨全部を購入しても足りず、慶尚北道の市場の墨でようやく足りたという。同年中に印経は完了し、1,163冊は木箱48函に入れられ、昭和13年(1938)1月22日に新京の溥儀のもとに到着した(高橋1951)

 朝鮮戦争中の1951年9月18日、敗走中の朝鮮人民軍900名が伽耶山に潜伏し、韓国軍は掃討を行っている。その際、敗残兵の一部が海印寺に侵入し、大寂光殿に銃弾一発撃ちこまれていたという。地上部隊の空中支援要請を受けた航空隊指揮官金英煥(1920〜55)は、海印寺の焼失を恐れ、敵軍には攻撃を行わず、威嚇を行って敵軍を撤退させたが、その攻撃に消極的にみえた米軍などから非難を受けたという。金英煥は1955年に江陵地区で戦死したが、海印寺は金英煥への感謝の念を表した(李1992)


冥府殿(平成25年(2013)3月15日、管理人撮影)。咸豊23年(1873)の再建。

[参考文献]
・小野玄妙(二楞生)「朝鮮伽耶山海印寺大蔵経板」(『宗教界』5-11、1909年12月)
・小野玄妙「韓国海印寺の大蔵経板について」(『東洋哲学』17-3、1910年3月)
・妻木直良「高麗大蔵経雕板年代に就いて」(『新仏教』11ノ5、1910年5月)
・妻木直良「再び高麗大蔵経雕板年代に就いて」(『新仏教』11ノ6、1910年6月)
・小野玄妙「高麗祐世僧統義天の大蔵経版雕造の事蹟」(『東洋哲学』18-2、1911年2月)
・高橋亨『李朝仏教』(宝文館、1929年。復刻版:国書刊行会、1973年)
・菅野銀八「海印寺大蔵経板に就て」(『史林』7-3、1922年7月)
・小野玄妙(二楞学人)「高麗顕宗及文宗開版の古雕大蔵経」(『仏典研究』第1巻第1号、1929年4月)
・小野玄妙「高麗大蔵経雕印考」(『仏典研究』第1巻第4号、1929年7月)
・高橋亨「高麗大蔵経板印出顛末」(『朝鮮学報』2、1951年10月)
・藤田亮策「海印寺事蹟に就いて」(同『朝鮮学論考』藤田先生記念事業会、1963年)
・孟仁在「上梁文二件」(『考古美術』6-1(54)、1965年1月)
・孟仁在「海印寺通信(一)」(『考古美術』6-2(55)、1965年2月)
・孟仁在「海印寺通信(二)」(『考古美術』6-5(58)、1965年5月)
・孟仁在「海印寺経板庫(南庫)上梁文」(『考古美術』6-10・11(63・64)、1965年10月)
・孟仁在「伽耶山海印寺八万大蔵経殿上梁文」(『考古美術』6-10・11(63・64)、1965年10月)
・李蘭映『韓国金石文追補』(中央大学校出版部、1968年11月)
・矢崎正見「明代中国仏教考-その大蔵経開版事業とチベット仏教との関係について-」(『研究紀要』17、立正女子大学短期大学部、1973年12月)
・李永洙「均如大師伝の研究(上)」(『東洋学研究』7、東洋大学東洋学研究所、1973年)
・葛城末治『朝鮮金石攷』(国書刊行会、1974年5月)
・李弘稙「羅末の戦乱と緇軍」(『韓』4-2、1975年2月)
・黄寿永『韓国金石遺文』(一志社、1976年4月)
・申栄勲編『「国宝」ー韓国7000年美術大系H寺院建築』(竹書房、1984年10月)
・許興植『高麗仏教史研究』(一湖閣、1986年10月)
・大屋徳城「朝鮮海印寺経板攷-特に大蔵経補板並に蔵外雑板の仏教文献学的研究-」(同『大屋徳城著作撰』9、国書刊行会、1988年6月)
・藤田亮策「海印寺雑板攷 1・2・3」(『朝鮮学報』138・139・140、1991年1・4・7月)
・韓国文化財保護協会編『韓国文化財大観3 宝物1 木造建築(一般建築・寺院建築)』(大学堂〈丸善発売〉、1991年2月)
・金奉烈著/西垣安比古訳『韓国の建築-伝統建築編-』(学芸出版社、1991年6月)
・李智冠編『伽耶山海印寺誌』(伽山文庫、1992年2月)
・蔡印幻「韓国華厳祖師海印寺希朗」(鎌田茂夫博士古稀記念会編『華厳学論集』大蔵出版、1997年)
・金知見「均如伝再考-亡命の魂-」(鎌田茂夫博士古稀記念会編『華厳学論集』大蔵出版、1997年)
・金天鶴「新羅下代における華厳と禅の宗派意識」(『東洋文化研究』10、2008年)
・金天鶴「高麗大蔵経の背景」(石井公成編集委員『新アジア仏教史10 朝鮮半島・ベトナム 漢字文化圏への広がり』佼成出版社、2010年5月)

更新:平成25年(2013)9月20日


窮玄堂(平成25年(2013)3月15日、管理人撮影)。光緒13年(1887)の再建。



「韓国慶州寺院参詣の旅」に戻る
「本朝寺塔記」に戻る
「とっぷぺ〜じ」に戻る