法琳寺跡



法琳寺跡遠景(平成25年(2013)2月11日、管理人撮影)

 法琳寺(ほうりんじ)はかつて京都市伏見区小栗栖北谷・丸山町付近に位置(外部リンク)した寺院です。白鳳時代より伽藍があり、常暁(?〜866)が太元帥法を修法する道場として御願寺になりました。平安時代後期に曼荼羅寺、鎌倉時代に醍醐寺理性院の末寺となり、至徳2年(1385)に太元堂が理性院に移されて衰退、室町時代中期頃に廃絶しました。


白鳳時代の法琳寺

 法琳寺跡は京都市の南東の山科盆地南方の西側隘路となっている大岩山の尾根部分に位置する。山科盆地には弥生時代中期から古墳時代にかけての集落(中臣遺跡)が確認されており、遺跡内の中臣十三塚古墳群から7世紀前半までの活動が確認される。天智天皇6年(667)天智天皇による近江大津宮の遷都に際して、山科と大津の立地の近さにより、天智天皇の山科陵が造営された。また側近の中臣鎌足は山城国宇智郡小野郷山階村の陶原薗に住んだといい、その邸宅は後に山階寺となった。山階寺は後に奈良に移転し興福寺となっている(『七大寺巡礼私記』興福寺、講堂)

 飛鳥白鳳時代における現在の京都市周辺では寺院の造立が相継ぎ、北野廃寺・広隆寺・北白川廃寺・樫原廃寺・法観寺などが7世紀中葉までに建立された。白鳳時代には山科盆地周辺でも寺院の造立が行われ、 6世紀中葉には大宅廃寺・醍醐廃寺が、7世紀末から8世紀初頭にかけて小野廃寺が造立された。法琳寺はこれら白鳳時代に建立された寺院の一つに数えられる。

 法琳寺の開創について、『入唐五家伝』には長元2年(1029)成立の「入唐根本大師記」が引用されているが、それによると、法琳寺は長元2年(1029)より373年前の丁巳年、すなわち斉明天皇3年(657)に鈴間公成が建立したとしている(『入唐五家伝』小粟栖律師伝、入唐根本大師記)。また宗意(1078〜1148)の『覚禅鈔』によると、孝徳天皇(位645〜54)の時に建立されたとも、斉明天皇3年(657)に建立されたともいう(『覚禅鈔』巻第90、太元法下、裏書、法琳寺最初建立事)。さらに近世京都の地誌『山城名勝志』(1705)に引用される『法琳寺別当旧記』によると、孝徳天皇の御願により三重塔・弥勒堂・薬師堂が造立され、斉明天皇(位665〜61)の御願により定恵(643〜66)によって太元堂が建立されたとする(『山城名勝志』巻第17、宇治郡、法琳寺、旧記云)。定恵は中臣鎌足の長子であり、一見これらのことは鎌足は山科の陶原に邸宅を構えていたことから、史実であるかのようにみえるが、太元堂は承和7年(840)の常暁による太元帥法の請来までに建立されることはありえず、また発掘調査により検出された遺物からも孝徳・斉明天皇まで溯ることはできず、7世紀第4四半期(およそ675年頃から700年頃)の遺物が最も古い。

 法琳寺跡は北西から南東に延びる尾根端の西側の狭い平坦地を利用した不規則に主要建物を配置した寺院と考えられている(京都橘大学文学部2007)。平成12年(2000)3月に京都橘女子大学により発掘調査が行われ、平成13年(2001)8・9月の発掘調査により、礎石や軒丸瓦・軒平瓦が出土した。また平成16年(2004)11月に行われた地中レーダー探査においても、長方形の構造が2基検出された。発掘調査自体では建物跡が1基が確認されただけであったが、これは瓦葺礎石建物で、柱間は東西約3m20cm、南北約2m80cmで、大宅廃寺の中央建物(講堂)の南北庇の柱間に近似している。そのためこの建物は講堂のような法琳寺の中心的建物であったとみられているが、本来伽藍の後方に位置する講堂には、その前(南)面に建物があるはずであるが、南面には建物の有無は確認されていない(京都橘大学文学部2007)。なお大宅廃寺の中央建物の規模は、古代の表記でいうところの「五間四面」、すなわち桁行5間、梁間2間、1間一重庇付の建物であり、法琳寺もまたこれに準じた建物であったとみられる。また発掘調査によって瓦堆積が検出しており、礎石や土坑がほとんど検出されていないものの、瓦葺建物の痕跡とみるならば、鐘楼や経蔵のような小型な建物であると考えられている(京都橘大学文学部2007)

 出土した軒丸瓦は法隆寺式の鋸歯文縁複弁八葉蓮華文軒丸瓦、縁単弁十二葉蓮華文軒丸瓦(素文と重圏文)、小山廃寺式の雷文縁複弁八葉蓮華文軒丸瓦の4種であった。法隆寺式軒丸瓦は京都府下では醍醐廃寺と岡本廃寺でしか検出されておらず、岡本廃寺のものは後世のもので、かつ醍醐廃寺のものは法琳寺より供給されたとみられているから、法隆寺式軒丸瓦は山背国においては法琳寺で最初に導入されたとみられている(京都橘大学文学部2007)。また小山廃寺式軒丸瓦は大宅廃寺・醍醐廃寺と同笵であり、笵傷から大宅廃寺が先行するとみられている。大宅廃寺(A類)のものは680年代前半のものと推定されており、これをもとに同文瓦(B類)が作成されており、これもやはり680年代のものとみられていることから、法琳寺の小山廃寺式軒丸瓦もまた680年代のものと考えられる。土器類の遺物は平安時代前期の緑釉合子形香炉の蓋、三脚盤の足、椀が出土した(京都橘大学文学部2007)

 法琳寺の建立は7世紀第4四半期(およそ675年頃から700年頃)のうち、大宅廃寺との間における小山廃寺式軒丸瓦の関係から、680年代に建立されたものとみられる。この時期、山科盆地には大宅廃寺・法琳寺・醍醐廃寺・小野廃寺が相継いで建立され、先行する山階寺と相俟って山科盆地は寺院が林立する地域となった。山階寺は中臣(藤原)氏、大宅廃寺は大宅氏といったように氏族が造立したと考えられているものの、寺院の建立が相継いだ理由についてわかっていない。あるいは天武天皇9年(680)4月に大寺を除いた寺院の官司による管理を停止するとともに、食封所有の期限を30年に限ったことと関係があるのかもしれない(『日本書紀』巻29、天智天皇9年4月是月条)


法琳寺跡(平成25年(2013)2月11日、管理人撮影)

常暁の入唐求法

 常暁(?〜866)の前半生についてはほとんどわかっていない。後世「根本祖師」と称され尊崇をにもかかわらず、出自も不明で、中世の伝説では小栗栖の路傍の捨て子であったといわれる(『元亨釈書』巻第3、慧解2之2、法琳寺常暁伝)。豊安(764〜840)の弟子であったというが(『阿娑縛抄』第196、明匠等略伝下、日本下、常暁伝)、元興寺の僧であったことは間違いない(『続日本後紀』巻5、承和3年閏5月丙申条)。承和元年(834)正月19日、第17次遣唐使の派遣が決定され、大使に藤原常嗣(796〜840)、副使に小野篁(802〜53)が補任された(『続日本後紀』巻3、承和元年正月庚午条)。常暁は第17次遣唐使に同行した7人の請益・留学僧の一人となる。常暁とともに入唐した円仁は承和2年(835)に請益僧に任じられていることから(通行本『慈覚大師伝』)、常暁が留学僧に任じられたのは承和2年(835)頃であったらしい。

 承和3年(836)5月14日に遣唐使船4艘が出航したが(『続日本後紀』巻3、承和3年5月壬子条)、18日の暴風雨のため摂津輪田泊(現神戸港)に停泊していた遣唐使船に被害が生じて、出発は延期せざるを得なかった(『続日本後紀』巻3、承和3年丙辰条)。常暁は閏5月28日に伝燈住位から満位に叙されている(『続日本後紀』巻5、承和3年閏5月丙申条)。7月2日に遣唐使船4艘は再度出航したが(『続日本後紀』巻3、承和3年7月壬午条)、16日に第1船と第4船が大宰府に引き返し(『続日本後紀』巻3、承和3年7月癸未条)、第2船・第3船が行方不明となった(『続日本後紀』巻3、承和3年7月甲申条)。24日に第2船が大宰府に引き返してきたが(『続日本後紀』巻3、承和3年7月辛卯条)、第3船は難破したため、16人が筏を組んで漂流した。第3船は対馬に漂着していたのが発見されたが、3人しか生き残っておらず、120人余が犠牲となった(『続日本後紀』巻3、承和3年8月己亥・乙巳・丁巳・壬戌条)

 遣唐使の出発は承和5年(838)に再開され、6月17日に第1船・第4船が筑前国博多港を出発した(『入唐求法巡礼行記』巻第1、承和5年6月17日条)。常暁は第4船に乗船したが(『常暁和尚請来目録』)、第1船には円仁・円載が乗船しており、第2船の出航は遅れ、第3船は出発しなかった。第4船は北海に漂着し(『入唐求法巡礼行記』巻第1、開成3年7月3日条)、泥上に座礁し、8月になっても常暁らは上陸できず、泥水が船に満ちる有様であったという(『入唐求法巡礼行記』巻第1、開成3年8月8日条)。第4船の一行は8月24日に揚州に到着し(『入唐求法巡礼行記』巻第1、開成3年8月24日条)、翌日午時に常暁は円仁と面会して慰撫された。その後常暁は開元寺を見学して、広陵館に戻った(『入唐求法巡礼行記』巻第1、開成3年8月25日条)

 同年10月に大使らは長安に出発したが、常暁は随行することができず、いたずらに広陵館に留まることとなり、虚しく月日だけが過ぎていった(『常暁和尚請来目録』)。第17次遣唐使の請益・留学僧が参詣・留学などの所定の目的を果たすことは難しく、順調に入京したのは円行(799〜852)のみで、円仁・円載(生没年不明)はともに天台山行きを希望していたが、円載は遅れて叶えられたが、円仁は叶えられなかったため遣唐使一行から脱走した。戒明は長安入りを許可されず、弟子を還俗させて入京させる有様であった。常暁もまた年末になっても正式な許可が得られず、やむを得ず郡内を周遊して師を探すこととした。たまたま栖霊寺の潅頂阿闍梨の文サン(王へん+祭。大漢和21200番。UNI3EEE)および華林寺の三教講論大徳の元照座主に会った。この文サンは不空(705〜74)の弟子の恵果(746〜806)付法の門人であり、経典を巧妙に研鑽し深く密教に通じた仏法の棟梁で、国が帰依した人物であったという(『常暁和尚請来目録』)。この文サンより太元帥法を得ることになるのだが、寵寿(803〜86)の奏状によると、常暁が広陵館にいる時、日本僧霊宣(霊仙)の弟子がやって来て、霊宣の遺言として、日本に太元帥法をもたらすよう告げたという(『太元帥法縁起奏状』)

 常暁は開成3年(838)12月に節度使李徳裕(787〜849)に決済を願い出て、栖霊寺に住することとなり、文サンを師主として法儀を学んだ。また同時に華林寺に赴いては元照のもとで三論宗の宗義を学んだ。開成4年(839)正月4日に二百僧斎を設け、諸寺の高僧らが、斎会に臨席した。この日夜、常暁は文サンのもとで金剛界を受法し、翌日昼には諸寺を廻って法門を尋ね求めた。さらに李金ら招いて大元帥将部曼荼羅等の諸尊像を図画させ、また経典を写した。2月19日には伝法阿闍梨位潅頂を受け、この日大斎を設けて大衆に供した。また藤原貞敏(807〜67)らの臨席のもと本尊を本尊に投げて五智潅頂を受けた(『常暁和尚請来目録』)


小栗栖法琳寺常暁和尚木像(秋篠寺蔵)(長谷宝秀編『弘法大師諸弟子全集』下〈1942年9月〉口絵より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)

太元帥法

 太元帥法は、太元帥明王を本尊として修する国家修法である。「太元帥」とあるが、口伝上では「帥」字を読まず、「だいげんほう」と読むといわれる(『公事根源』)。善無畏(637〜755)訳『阿藻幕芟ウ帥大将上仏陀羅尼経修行儀軌』(大正蔵1239)を所依経典とするが、同経はさらに失訳の『阿総S婆拘鬼神大将上仏陀羅尼神呪経』(大正蔵1237)を所依とする。

 『阿総S婆拘鬼神大将上仏陀羅尼神呪経』はすでに開元録にみえているから、盛唐までには存在していたらしい。智昇(生没年不明)が開元録で述べるところによると、梁(502〜57)の経房に入蔵されており、失訳経ではあるものの、文体等の考察によって遠代のものではなく、梁末に編纂されたものとみなしている(『開元釈教録』巻第6、総括群経録上之6)。日本へは奈良時代に請来されており、天平勝宝4年(752)の時点で請来が確認でき、かつ曇無讖(385〜433)訳とみなされていた(「可請本経目録」正倉院文書続々修14帙4〈『大日本古文書(編年文書)』12〉)

 一方の『阿藻幕芟ウ帥大将上仏陀羅尼経修行儀軌』は、常暁がはじめて請来したものであり、常暁録には「大元帥念誦儀軌」とみえる(『常暁和尚請来目録』)

 『阿藻幕芟ウ帥大将上仏陀羅尼経修行儀軌』の説くところによると、仏が倶尸那城の沙羅双樹のもとで、大比丘衆1250人、菩薩摩訶薩36000人とともにいるところ、仏が大衆に涅槃に入らんとすることを告げると、四衆はただ世尊がさらに在世して魔王を降伏して無上の道心を発せしめることを願い出た(『阿藻幕芟ウ帥大将上仏陀羅尼経修行儀軌』巻上)

 さらに同経では、大元帥法を行う者は、まず1鋪の大力神将將を描くが、あるいは2・3・4幅でもよく、描く素材は絹をよしとする。まず潔斎すること7日、よい衣を着け、清浄洗浴して斎戒を受け、一浄室にて幢幡と供華を懸け、火壇をつくる。高さ1尺の壇上に炭火を焼き、すなわち白汁の木1,080段を取る。胡麻・粳米・蜜・酪・香華を取って、一呪ごとに一焼しながら誦呪し、焼き尽し終わると彩色を用いて壇上に安置する。彩色には膠を用いず、白檀の汁および薫陸(硬化樹脂の香料)の香汁であわせる。8月1日より描きはじめるが、まず厠にて洗浴し、阿藻枕S元帥を描く(『阿藻幕芟ウ帥大将上仏陀羅尼経修行儀軌』巻中)

 阿藻枕S元帥とは大元帥明王の梵音であり、あるいは阿藻實゙・阿藻幕艪ニも表記される。その像様は、身は黒青色で、身長8尺で顔は四面ある。正面は仏面をであるが、左面には虎牙があり、三つの眼はいずれも血のように赤い。右面は瞋相(怒り顔)であり虎牙がある。正面頭上の一面は悪相であり、左右面同様に三眼・虎牙であり、眼は血のように赤い。火焔が頭上に連なり、身に蛇をまとった八臂である。左上の手は上から順番に輪・槊を持ち、次手は右の第三手とともに合掌して供養印をなす。次手には索をもつ。右は跋折羅・捧・印(左とともに合掌)・刀をもつ。七宝絞絡甲を着け、象の頭皮を膝にまとう。脚はくつを履き、二薬叉を踏んでおり、薬叉の顔は極悪相である。左右には四侍者が配置され、左には提頭頼早E毘楼勒叉を、右には毘楼博叉・毘沙門を描く。いずれも大瞋相(怒り顔)である(『阿藻幕芟ウ帥大将上仏陀羅尼経修行儀軌』巻中)

 神現を求める者は7月7日、3月3日に乾燥した草木・花を穀・稲・酥酪(ヨーグルトのような乳製品)・蜜で焼くと、一切天神・八部鬼神はみな歓喜して現身するとされた。壇場は地を3尺掘って悪土・瓦石・樹根を取り去り、別の浄い土で壇を築く。香を3度塗って牛糞(インドでは清浄物とされた)で蒸し、悪土の気を除去する(『阿藻倶元帥大将上仏陀羅尼経修行儀軌』巻中)。なお日本では香と牛糞ではなく、秋篠寺の土を塗ることになっていた(『覚禅鈔』巻第89、太元法上、壇場荘厳)


大元明王(『大正新修大蔵経 図像部』第3巻〈大正新修大蔵経刊行会、1932年11月〉図像96より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)

常暁の帰朝

 本来、留学僧は30年間唐に留まることが規定されていたが、常暁は勅によって留住を許可されず、遣唐使一行とともに帰国の途についた(『常暁和尚請来目録』)

 承和6年(839)9月5日に請来目録を撰述した。その中で常暁は大元帥法を「都内に十供奉以外に伝わらず、諸州に節度使宅以表を出でず」と秘教であることを喧伝し、さらに「新羅の賊畔、かの厄難を越えて聖境を平達す」として、新羅の脅威を除くことを強調した(『常暁和尚請来目録』)

 当時、朝鮮半島の新羅と日本との関係は悪化しつつあり、奈良時代には藤原仲麻呂主導で新羅征討が計画されたこともあった。さらに弘仁2年(811)12月6日に対馬に新羅3艘が来着し、うち1艘が着岸して10人が捕えられると、残り2艘が消え去り、翌日7日には対馬西海岸に新羅船20余艘に押し寄せたため、対馬側は先に捕えたうち5人を殺害し、残りは遁走した。対馬は新羅沿岸を望見して、毎夜灯火が数ヶ所で見えるため恐れていた(『日本後紀』巻22、弘仁3年正月甲子条)。さらに弘仁4年(813)2月には新羅人110人が5艘の船に乗って小近島(小値賀島)に漂着して島民と戦闘に及び、新羅人9人が殺害され、101人が捕えられた(『日本紀略』弘仁3年3月辛未条)

 この前後より新羅人が帰化を求めて日本に漂着する事件がおこっている。これらは新羅の賦役の苦から逃れるためであったが、天平宝字3年(759)9月4日に帰国を願う者については糧食を給付して帰国させることとした(『続日本紀』巻22、天平宝字3年9月丁卯条)。帰化を願って漂着する新羅人のみならず、9世紀初頭は張保皐海上勢力が黄海・東シナ海に渡って活動しており、帰化か海上勢力か不明なうちに交戦した場合もあったらしい。さらに新羅の賦役の苦から逃れるために帰化したにも関わらず、律令制度下の日本に帰化しても賦役に科せられるのは変わらず、弘仁11年(820)には遠江・駿河両国(静岡県)の新羅人700人が反乱をおこし、殺人・放火を行ない、遠江・駿河両国が兵を出して攻撃したものの勝つことが出来ず、反乱勢力は伊豆国の穀を盗んで海上に逃れ、最終的に相模・武蔵などの7国の軍が追討し、ようやく降伏させている(『日本紀略』弘仁11年2月丙戌条)

 これらによって嫌新羅感が日本に醸成され、承和元年(834)2月には漂着した新羅人を百姓が弓矢を射て傷つける事件がおこっている(『続日本後紀』巻3、承和元年2月癸未条)。このように日本における対新羅感を見越して大元帥法を強調することによって承和6年(839)9月23日には大宰府より大元帥画像を朝廷に進上させている(『続日本後紀』巻8、承和6年9月辛丑条)

 承和7年(840)より常暁は小粟栖寺に居住した(『入唐五家伝』小粟栖律師伝、入唐根本大師記)。同年6月3日、常暁は奏上して法琳寺の地勢は閑燥として大法を修するに足るところとした上で、唐より請来した太元帥霊像秘法を安置するところとし、ここを修法院として国家を保護したいと述べた上で、講読師の摂に関わらないことを願い出た(『続日本後紀』巻9、承和7年6月丁未条)。諸国講読師は国分寺・部内諸寺を検察し、国分寺僧を沙汰し、僧を教導すると定められており、僧綱とともに国家仏教の中枢を担っていた。法琳寺は宇治郡の寺院であったため、本来ならば山城国講読師の掣肘を受けなければならないが、常暁は講読師の関与停止を願い出たのであった。またこの時御願堂を建立して尊像を安置し、また別に勅旨・綸旨があり、剣・弓箭を100づつ、法壇の種々の道具を造っている(『入唐五家伝』小粟栖律師伝、入唐根本大師記)

 常暁は承和7年(840)から嘉祥3年(850)まで宮中常寧殿での修法に預かっている(『入唐五家伝』小粟栖律師伝、入唐根本大師記)。承和13年(846)5月1日に常暁は、毎年正月に宮中にて15僧を屈請して大元帥法を行ない、その用途物はすべて宮中真言院の例に准ずるよう願い出た。しかし裁可は降りず、仁寿元年(851)12月29日に再度奏聞したところ、30日に宣旨が降り、永く国典とすることとなった(『入唐五家伝』小粟栖律師伝、入唐根本大師記)。仁寿2年(852)11月3日には寵寿に伝法阿闍梨位を授けたが、この時天王の御判を請うている(『入唐五家伝』小粟栖律師伝、入唐根本大師記)

 斉衡年間(854〜857)、文武天皇は薬師堂を御願とし、七仏薬師像を安置した(『入唐五家伝』小粟栖律師伝、入唐根本大師記)。これによって法琳寺は名実ともに御願寺となった。斉衡3年(856)2月には神泉院にて祈雨祈祷をおこなっているが、中央の幡に白龍がまとわりついて修法の間離れなかったという。そこで法琳寺の山に迎えて移し、山の名を改めて福徳龍王としたという(『入唐五家伝』小粟栖律師伝、入唐根本大師記)

 「入唐根本大師記」によると、常暁は承和10年(843)に律師に任じられたというが(『入唐五家伝』小粟栖律師伝、入唐根本大師記)、実際にはその下位の権律師に任じられたのが貞観6年(864)2月16日のことであった(『日本三代実録』巻8、貞観6年2月16日癸酉条)。常暁は貞観8年(866)11月30日に示寂した(『入唐五家伝』小粟栖律師伝、入唐根本大師記)

 なお近世の伝承では栢ノ森の池に水葬されたといい、池より銅製観音像が出現して一言寺境内に小堂をつくって祀られたというが(『山城名勝志』巻第17、宇治郡、栢森)、これは栢杜遺跡であり、源師行(?〜1172)が久寿2年(1155)に建立した栢杜堂の跡であった(『醍醐雑事記』巻第7・8書、具注暦久寿2年6月21日条)。八角二階堂、九体丈六堂、三層塔があり(『醍醐雑事記』巻第5、大蔵卿堂)、九体丈六は重源(1121〜1206)の勧進によるものであった(『南無阿弥陀仏作善集』)。この栢杜遺跡は発掘調査が行われ、八角二階堂、丈六堂、三層塔跡が検出された。


法琳寺跡(平成25年(2013)2月11日、管理人撮影)

法琳寺の寺内組織と発展

 法琳寺の寺院組織について、別当が1人おり、概ね太元帥法阿闍梨と兼任した。後に秋篠寺別当と兼帯する例があった(『正嫡相承秘書』太元法文書〈大日本史料3編10冊〉)。また貞元元年(976)10月26日の奏上によると、法琳寺には寺主・上座・勾当・別当・検校・阿闍梨がおり(『太元帥法縁起奏状』)、別当と阿闍梨は兼任していたから、寺内組織は寺院の三綱と別当・検校が支配していたことが知られる。

 法琳寺は天禄3年(972)の上奏の際に御願僧として推薦された僧のすべてが元興寺を本寺としていたように(『太元帥法縁起奏状』)、法琳寺は元興寺の強い影響下にあったことが知られる。これは「根本祖師」と称された常暁も元興寺僧であったからであろう(『続日本後紀』巻5、承和3年閏5月丙申条)。また秋篠寺は法琳寺の別院とされ(高山寺本『太元帥法縁起奏状』法務御房陳状)、太元帥法で用いる香水や土は秋篠寺の閼伽(井戸)や土を用いることになっていた(『秋篠寺縁起』)。また平安時代後期の規定ではあるが、宮中における仏教法会のひとつである季御読経において、元慶寺の僧が一人屈請されることとなっていた(『江家次第』巻第5、2月、季御読経事)

 伽藍は太元帥法を修する太元堂があり、内部には東南に持国天、西南に増長天、西北に広目天、東北に多聞天が安置されていた(『東宝記』第1、仏宝上、講堂、付四天方位事、裏書、私云)。他に斉衡年間(854〜857)に文武天皇の御願として建立された薬師堂(『入唐五家伝』小粟栖律師伝、入唐根本大師記)、金堂・塔・僧坊があった(『太元帥法縁起奏状』)

 毎年正月の太元帥法において、『延喜式』には修法料として米17斛6斗4合、糯米4斛1斗7升、大麦4斗2升、小麦1斛7斗8升、大豆5斗8升、小豆1斛5斗7升8合、胡麻1斛3升5合(『延喜式』巻第35、大炊寮、正月修太元帥堂)、油1斛4斗5升1合、護摩壇供料として8斗6升1合(『延喜式』巻第36、主殿寮、同月修大元帥法料)、明櫃20合、叩戸瓶5口(『延喜式』巻第33、大膳下、同月修太元法料)、僧供料として3斗4升、僧十五口に対しては2斗4升(『延喜式』巻第36、主殿寮、同月修大元帥法料)、心太(ところてん)1斗9升、紫苔12斤、鹿角菜1斛9斗、海藻20斤、海松角俣24斤、細昆布60斤、胡桃子1700果、塩5斗8升、醤3斗、滓醤(かすびしお)1斗9升、瓮5口(『延喜式』巻第33、大膳下、同月修太元法料)が給付される規定となっていた。しかし封戸・荘園は有しておらず(『太元帥法縁起奏状』)、安元元年(1175)に醍醐寺と曼荼羅寺が仁禅大智院田をめぐって相論となった際、曼荼羅寺が末寺法琳寺の寺領であるとの主張に対して、醍醐寺は事実ではないとしている(「八条院庁牒案」醍醐寺文書〈平安遺文補124〉)

 常暁示寂後、貞観8年(866)12月25日に寵寿(803〜86)が第2世法琳寺別当となった(『法琳寺別当補任』第二阿闍梨寵寿)

 常暁生前の貞観7年(865)8月に儲君が東宮より内裏に移ることになった際、后町(きさいまち)にあった尊像・道具などを他の場所に移すことになった。尊像は白虎楼に、斎会の調度物は翔鸞楼・冷泉院に納められた。さらに治部省にて太元帥法を修することになり、治部省に尊像などを納めたため、白虎楼・翔鸞楼・冷泉院の焼失による災いを免れた(『太元帥法縁起奏状』)

 太元帥法は国家鎮護の法であるが、常暁は新羅の脅威を除くことを強調したが、対新羅の修法が実際に行われたのが貞観13年(871)正月になってからであった。それ以前の貞観11年(869)5月22日夜に新羅の海賊が二艘に乗って博多津に入港し、豊前国の年貢絹綿を奪って去っている(『日本三代実録』巻16、貞観11年6月15日辛丑条)。また貞観12年(870)に対馬の卜部乙屎麻呂が鳥を捕えるために新羅との境に向かったが、新羅に捕えられて土獄に収監された。乙屎麿は新羅国にて材木を運搬して大船を建造し、鼓を打ち笛を吹いて演習しているのを見ており、看守に聞いたところ「対馬島を伐ち取るためである」と答えたため、乙屎麿は脱獄して新羅より逃れ、大宰府に報告した(『日本三代実録』巻17、貞観12年2月12日甲午条)。このような中、隣国降伏のため貞観13年(871)正月に太元帥法を修している(『太元帥法縁起奏状』)

 元慶2年(878)に出羽国で元慶の乱がおこると、朝廷は6月28日に詔を発して寵寿を出羽国に派遣し、7僧を率いて降賊法を修させた(『日本三代実録』巻33、元慶2年8月28日壬辰条)。寵寿は仁和2年(886)正月28日に示寂した(『法琳寺別当補任』第二阿闍梨寵寿)

 第3世となった元如(?〜897)の時には飢饉を除くために太元帥法を修しており、次の命藤(812〜910)・舒隆(880〜934)・元忠(876〜931)の後、第7世となったのが泰舜(874〜949)である。

 泰舜は左京の人で、俗姓は藤原氏である。命藤の弟子で、蓮舟より潅頂を受法した(『東寺長者補任』巻第1、天暦3年条、長者律師泰舜)。延喜20年(920)5月19日に藤原忠平の病のために修法を行っており(『貞信公記』延喜20年5月19日条)、延長7年(929)9月17日に法性寺にて行われた藤原忠平の五十賀斎会において散花を勤めている(『扶桑略記』第24、延長7年9月17日条、吏部王記逸文)。延長9年(931)4月2日に太元法阿闍梨宣下を受け、承平元年(931)4月2日に法琳寺別当に補任された(『東寺長者補任』巻第1、天暦3年条、長者律師泰舜)

 泰舜は承平・天慶の乱において修法に尽力し、承平6年(936)3月5日に豊楽院にて海賊消滅のための太元帥法を修している(『日本紀略』承平6年3月5日甲午条)。また天慶3年(940)正月14日より法琳寺において一七箇日(14日間)の太元帥法を修しており、これは平将門降伏のための修法であった(『法琳寺別当補任』第七阿闍梨泰舜)。後世の伝説によると、泰舜が修法中に独鈷杵がひとりでに折れ、将門はこの日に討たれたという(『元亨釈書』巻第10、感進4之2、泰舜法師伝)。12月28日に太元帥法の功労によって泰舜は東寺三長者に任じられた(『東寺長者補任』巻第1、天慶4年条、権律師泰舜)。天慶5年(942)に一長者済高が示寂して貞崇が一長者に補任された(『東寺長者補任』巻第1、天慶5年条)。これにともなって泰舜は12月に東寺二長者となったが(『法琳寺別当補任』第七阿闍梨泰舜)、本来上臈であった貞誉が二長者に補任され、泰舜は三長者に降格となった(『東寺長者補任』巻第1、天慶5年条)。天慶7年(944)7月、貞崇・貞誉があいついで示寂すると唯一の東寺長者となり、同年8月9日に金剛峰寺座主に補任された(『東寺長者補任』巻第1、天慶7年条、権律師泰舜)。天慶8年(945)正月14日に朱雀天皇が病のため加持香水を行わせることになっていたが、泰舜は病のため参入できず、一定を代わりに参入させたが、長者ではない者が加持香水を行うことは前代未聞であった(『貞信公記』天慶8年正月14日条)。天暦3年(949)10月3日に示寂した。79歳(『法琳寺別当補任』第七阿闍梨泰舜)

 泰舜が東寺長者に補任されるにしたがって太元帥法阿闍梨の位は天慶7年(944)7月19日に泰幽(878〜947)が任じられた(『法琳寺別当補任』第八阿闍梨泰幽)。その後円照(924〜74)・誉好(922〜89)・妙鑑(910〜990)・賀件(?〜995)・仁聚(?〜995)・泉澎(931〜995)・法円(965〜1010)・信源(993〜1038)と継承した。この間の法琳寺の事情についてわかっていないが、年未詳の法琳寺に年分度者を3人設置するよう求める奏上が行われた。これによると、法琳寺には得度する末弟がいないため、師の遺跡を守ることが難しいため、東寺・貞観寺・神護寺・高野山の例にならって太元宗業1人、金剛界業1人、胎蔵界業1人の年分度者を設置して課試を行ない、3年間寺内に住まわせて法を学ぶものとされた。年欠のため年次不明であるが、天延2年(974)頃のことであったらしい(『太元帥法縁起奏状』)

 また年欠であるが、法琳寺は朝廷に十僧を定置するよう願い出ている。この時十僧に推薦されたうちの一人の妙鑑が60歳であったため(『太元帥法縁起奏状』)、天禄3年(972)であったことが知られる。また天延4年(976)6月3日の地震により塔・僧房が倒壊あるいは傾斜し、金堂は大破している。しかし法琳寺には荘園・封戸がないため自力での修復・再建ができず、朝廷に修理を願い出ている(『太元帥法縁起奏状』)


法琳寺跡(平成25年(2013)2月11日、管理人撮影)

法琳寺の混乱と衰退

 第17世阿闍梨となった進息(981〜1046)は、永承元年(1046)6月11日に盗賊に殺害された。進息と源慶はともに信源の弟子であったが、双方対立し、源慶が逃亡するとともに進息が殺害されたという。これによって常暁以来の太元帥法相伝の正脈が途絶えることになる(『法琳寺別当補任』第十七阿闍梨進息)

 この危機に際して、かつて仁海(951〜1046)が泰舜より太元帥法を受学していたことから、仁海は尊覚(988〜1057)に太元帥法を授けた(『法琳寺別当補任』第十七阿闍梨進息)。これによって太元帥法阿闍梨の任命が可能となり、永承元年(1046)12月30日に尊覚は第18世阿闍梨となった(『法琳寺別当補任』第十八阿闍梨尊覚)

 尊覚の後は信算(?〜1059)が天喜5年(1057)10月5日に第19世阿闍梨となった(『法琳寺別当補任』第十九阿闍梨信算)。この信算が法琳寺別当であった時の天喜6年(1058)7月25日に法琳寺太元堂の前の地が長さ30余丈(約90m)、幅3丈余(約9m)にわたって陥没した(『扶桑略記』第29、天喜6年7月25日条)。同年8月1日には小槻孝信を法琳寺に派遣して陥没の地を検査させた(『扶桑略記』第29、天喜6年8月1日条)。これにより占いを行ない、改めて補任され直すことになったが、寺僧と信算との間に諍いがあったため、康平2年(1059)12月20日に信算は法琳寺より追放されてしまい、同月30日に示寂した(『法琳寺別当補任』第十九阿闍梨信算)。第20世阿闍梨となった真宗(生没年不明)もまた寺僧との抗争によって合戦となり、康平3年(1060)12月29日に法琳寺を追放された(『法琳寺別当補任』第廿阿闍梨真宗)

 これら別当と寺僧の抗争の要因として、常暁以来の太元帥法相伝の正脈が途絶えたことにより、仁海系の僧侶が別当として法琳寺に送り込まれたことがあげられる。仁海は小野の曼荼羅寺(現在の随心院)を拠点とする真言の名匠であるが、法琳寺は天禄3年(972)上奏の際に御願僧として推薦された僧のすべてが元興寺を本寺としていたように(『太元帥法縁起奏状』)、基本的には南都、とくに元興寺の影響を大きく受けた寺院であった。そのため仁海系の僧侶と、法琳寺の寺僧の間に軋轢が生じ、抗争に至ったのである。

 第21世阿闍梨となった源慶(1014〜75)もまた犯過により逃亡を余儀なくされ、そのまま示寂した(『法琳寺別当補任』第廿一阿闍梨源慶)。次に第22世阿闍梨となった宣慶(?〜1103)はこれら混乱における寺家側の首謀者であり、信算の追放から承保2年(1075)12月30日に正式な宣下を受けるまでの16年間、「不法別当」と称されており、宣下を受けてからも29年間法琳寺別当の地位にあった(『法琳寺別当補任』第廿二阿闍梨宣慶)

 第23世阿闍梨の定慶(?〜1105)の後、宣覚(?〜1108頃)が第24世阿闍梨となった。大元帥法阿闍梨の地位を長治2年(1105)より懐尊・良智・宣覚が競望しており、宣覚は宣慶の入室の弟子であり、文書相伝密印などが確かであったため、範俊(1038〜1112)に諮問したところ、宣覚が有利となり、嘉承元年(1106)正月5日に宣覚が大元帥法阿闍梨の宣下を受けた(『中右記』嘉承元年正月5日条)。宣覚はまた宣慶の真弟子(実子)であったともいい、嘉承3年(1108)正月に母の喪に服すため、改めて補任されたという。しかし自身は興福寺に住して所司を補任されていた(『法琳寺別当補任』第廿四阿闍梨宣覚)

 そのため再度大元帥法阿闍梨の座は断絶することになる。当時、東寺長者であった範俊に後任を一任されたらしく、範俊は覚源・源慶の例に倣って仁海の法脈から選ぶこととした(『覚禅鈔』巻第89、太元法上、太元阿闍梨簡定事)。ところが大江匡房(1041〜1111)が立剣輪法の相伝について知る者が太元帥法を修するべきであるとの意見を述べたため、同相伝について寛助僧都(1057〜1125)・醍醐寺座主覚信(1065〜1121)に下問したところ、両名はいずれも知らず、範俊が仁海→成尊→範俊と太元帥法の血脈が継承していたため、範俊の門弟から選ばれることとなり、嘉承3年(1108)2月28日に良雅(生没年不明)が法琳寺・秋篠寺別当に補任された(『正嫡相承秘書』太元法文書〈大日本史料3編10冊〉)。これによって法琳寺は範俊が住した曼荼羅寺(現在の随心院)の影響下に入り、安元元年(1175)に醍醐寺と曼荼羅寺が仁禅大智院田をめぐって相論となった際、曼荼羅寺が法琳寺の寺領であるから曼荼羅寺に得分があると主張していることから(「八条院庁牒案」醍醐寺文書〈平安遺文補124〉)、平安時代末期に法琳寺は曼荼羅寺の末寺となっていた。

 さらに仁和寺寛竟僧都の弟子の定覚(?〜1113頃)が第26世阿闍梨となり(『法琳寺別当補任』第廿六代阿闍梨定覚)、第27世阿闍梨となった兼尊(?〜1115頃)は定覚の弟子であり、仁和寺に住した(『法琳寺別当補任』第廿七代阿闍梨兼尊)。その後は琳覚(1068〜1135)・賢覚(1080〜1156)・真助(生没年不明)・覚曜(生没年不明)と継承し、久寿3年(1156)正月7日に賢覚が再任している(『法琳寺別当補任』第卅五代阿闍梨兼尊)

 賢覚の譲りによって寛宗(?〜1159)が第34世阿闍梨となり(『法琳寺別当補任』第卅四代寛宗)、その後は宗範が第35世阿闍梨となったものの、平基盛(1139〜62)の祈師を勤めていたため、基盛が死去すると任を去った(『法琳寺別当補任』第卅五代宗範)。このように終身が原則に近かった法琳寺別当・太元帥法阿闍梨も、平安時代後期になるとその原則が崩れ、尭真・尊実は師の入滅により任を去り、信遍は治承5年(1181)の大極殿焼失により任を去った(『法琳寺別当補任』第卅八代信遍)

 第39世の実□は治承5年(1181)7月8日に法琳寺太元堂にて20人を率いて関東調伏のために二七箇日(14日間)大元帥法を修した(『法琳寺別当補任』第卅九代実□)。その後覚鏡(1113〜92)・宗□(生没年不明)・蔵有(1142〜1221)・蔵秀(生没年不明)と継承した。蔵有は理性院宗厳より伝法しており(『続伝燈広録』小野方上、醍醐山蔵有僧都伝)、鎌倉時代前期に法琳寺は曼荼羅寺より離れて醍醐寺理性院の影響下に入った。

 承久の乱に際して、法琳寺別当はいずれも朝廷側と関係が深かったため、関東調伏祈祷を行っていた。蔵秀が第43世阿闍梨となったが母が死去したため、蔵有が再任した。蔵秀は藤原秀宗の子で、蔵有の弟子であった(『尊卑分脈』藤氏、藤成孫)。承久の乱で後鳥羽上皇側についた藤原秀康(?〜1221)の兄であったため、逃散して行方不明になっている(『法琳寺別当補任』第四十三代蔵秀)。蔵有は建保2年(1214)に再任し、承久3年(1221)5月に承久の乱に際しては朝廷側について関東調伏のため法琳寺にて三七日(21日間)太元帥法を行ったが、結願に及ぶ前の6月14日に逃亡した。蔵有は大内惟義・藤原秀康と年来の師壇関係にあった(『法琳寺別当補任』第四十四代蔵有)

 法琳寺は鎌倉時代から衰退が本格化し、弘安7年(1284)6月13日に太元堂に盗賊が入り、累代の衲横皮・剣が盗難にあった。そのため同年8月9日に新たに求め得なければならなかった(『続史愚抄』巻6、弘安7年6月13日条)。延慶3年(1310)に法琳寺は焼失しており(「西願文書紛失状」勧修寺文書〈鎌倉遺文27775〉)、正和2年(1313)2月6日にも太元堂が本尊もろとも焼失している(『東寺長者補任』巻第4、正和2年条)。同年に太元帥法本尊の図絵6幅は画師賢信によって新図を描かれており(『続史愚抄』巻16、正和2年今年条)、これは醍醐寺に現存する太元帥明王像であるとみられる。

 太元堂は至徳2年(1385)9月5日に醍醐寺理性院にて再興されることとなり(「後円融上皇院宣」理性院文書)、法琳寺から太元帥法は完全に切り離されることになる。以後理性院での修法となり、後に東寺潅頂院にて修されることになった。

 正長2年(1429)3月22日に法琳寺領の田畠が売却されるなど困窮を窮め(「橘吉家田畠売券」勧修寺文書)、室町時代中期に廃絶した。江戸時代中期には小栗栖村西山の中腹の毘沙門天を安置する小堂が法琳寺の跡地と考えられていた(『山城名勝志』巻第17、宇治郡、法琳寺)。岩倉木野で生産された江戸時代(18世紀)の土師器が出土しており、毘沙門堂に関わる遺物と見られている。平成12年(2000)より発掘調査が実施され、常暁以前の法琳寺の遺構が確認された(京都橘大学文学部2007)


[参考文献]
・赤松俊秀「醍醐寺太元帥法本尊の筆者に就いて」(『画説』68、1942年8月)
・梅原末治「山城小栗栖法琳寺趾出土の遺物」(『画説』70、1942年10月)
・堀池春峰『南都仏教史の研究』下(法蔵館、1972年4月)
・『栢杜遺跡調査概報』(鳥羽離宮跡調査研究所、1974年)
・石田尚豊「円珍の請来目録について」(智証大師研究編集委員会編『智証大師研究』同朋社、1989年10月)
・『(特別展覧会)王朝の仏画と儀礼 善をつくし美をつくす』(京都国立博物館、1998年10月)
・『法琳寺跡発掘調査報告』(京都橘大学文学部、2007年3月)
・『飛鳥白鳳の甍〜京都市の古代寺院〜(京都市文化財ブックス24)』(京都市文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課、2010年3月)


法琳寺跡石碑(平成25年(2013)2月11日、管理人撮影)。ライオンズクラブによって建てられたが、現在は半分以上土で埋もれている。



「平安時代前期の御願寺」に戻る
「本朝寺塔記」に戻る
「とっぷぺ〜じ」に戻る